麻原家族の教団裏支配の証言 ⑦水野愛子

 (2012-03-14 17:07:44 の記事)

 
麻原の家族が、アレフ教団を裏支配していることについての証言を
水野愛子個人総括文
から、抜粋してご紹介します。
※アレフを脱会する前、9年前、2003年頃に起こった出来事です。

水野愛子のつれづれ草(ひかりの輪活動レポートブログ)はこちら

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

しかし、麻原の家族を中心として、麻原への信仰が強い者たちが、
麻原を外していく上祐氏の改革に強く反対するようになり
6月下旬(2003年)、
上祐氏は突然、長期修行入りという形を取った事実上の幽閉、失脚となってしまいました。

 それほどまでに、家族、特に妻(松本明香里)と三女(松本麗華)らの権力は強かったのです。
私は、突然、二宮氏に呼び出され「マイトレーヤ正大師が大魔境です」と告げられ、
一瞬言葉 を失うほど驚きました。
それまで、「上祐教でいいんだ」といっていたほどの改革派で、上祐氏のパートナーとして、
麻原色をなくした導きを推奨してきた二宮氏の発言とはとうてい思えませんでした。

●魔境と言われ修行入り:家族の指示で信徒の信頼を失い、上層部を信じられなくなった大きなできごと

その頃、他の師たちは三女に呼び出されて、知子夫人や複数の正悟師たちから、
上祐氏が魔境である旨をこんこんと諭された
ということでしたが、
私は三女から一度だけ電話があり、
「グルとの縁を相当に傷つけている。懺悔した方がよい」
と言われました。

上祐氏はその後10月頃までは月に一度の支部説法会には出てきていましたが、
そのほかは一切の連絡を絶たれ、パソコンも携帯電話も取り上げられ、
警備と称しての監視が続けられたということでした。

私は上祐氏に傾倒していて同じく魔境とされ、9月頃から京都道場での修行を命じられました。
それまで担当していた経理やお金、携帯電話も部署のサマナ(オウム用語:アレフの出家者)の管理となり
(私が上祐氏と連絡をとらないよう)、私の動向は監視されているのがわかりました。

24時間なにをしたかの報告を、
毎日二宮氏にファクスで送らなければならなかったのですが、
なかなか心が向かず修行できないでいると、「なんで修行できないんだ」と怒られたり、
抜き打ちで視察されることもあり、ますますやる気をなくしていきました。
(中略)

また、修行入りから一ヶ月ほどして、突然、信徒伝授用のプルシャ製品を作成することになり、
約一ヶ月半、400個以上の製品をひたすら作り続けることにな りました。
12月になり、セミナーで伝授されるそれらのストーゥパ(仏塔型の置物)がほぼできあがった頃、
突然の指示変更があったのです。そのストゥーパ の形がおかしいので伝授できないということでした。

しかし、作成前には十分な確認をしていたはずでした。
この指示は二宮氏を通さず、師を通して来たために、二宮氏も激怒し、
今後一切のプルシャ作成から(私を含めたチーム全体)撤退すると宣言しました。

それは、村岡氏が知子夫人(麻原の妻・松本明香里)に上げたためだった
(村岡が麻原妻の指示で動いていた)
ことが後々わかりました。
しかし、すでに、信徒さんには告知しており、注文も入っていました。
私は到底納得で きませんでしたが、300個以上のストゥーパを壊し破棄していきました。
昼夜を問わず細かい作業をしてやっと作り上げたものを壊す時の気持ちは行き場のな いものでした。
(中略)
 直接、知子夫人にいきさつを聞いて、自分の意見を聞いて欲しかったのですが、
家族と連絡を取る手段などありませんし、
(すでに疑念を持ち始め、怒っている 信徒さんもいたため)村岡氏に、
せめて信徒に事情説明と謝罪をして欲しいと頼んだのですが、
私が対応できないかと言われました。

これには、上は責任をとらないのかという思いが生じ、
私の家族側の正悟師や家族に対する不信感は決定的なものとなりました。

ワークをするようになって、上祐氏の修行入りの真の理由も耳に入るようになりました。
家族にとって、麻原は絶対の存在で、麻原をその位置づけから外すこと は許されないことでした。
被害者やそのご遺族のことは念頭になく、自分たちの信仰を守ることが大切で、
事件の反省もなかったことになります。

上祐氏がいかにおかしかったかの理由づけは、事実と大きく湾曲され、
ねじ曲げられていました。
荒木氏が主催した「おはなし会」はそのような嘘を堂々と吹聴していました。
(中略)

なぜ師補(第一番目のヨーガの成就者)である荒木氏が、自身より
はるかに高い成就をなした正大師(アレフの位階制度で最高位)
を批判できるのかは、
家族の指示だったから
でした。
二宮氏と家族の話し合いでは、上祐氏排除のために、過激なやり方も話題に出たと聞きました。

そして、上祐氏排斥は「グルの意思」だとまで言われました。
これらの強制的なやりかたは、教団上層部の本質が変わっていないと感じさせました。

家族は形式上は脱会してはいましたが、教団の意思決定には大いに関わっていたことは、
サマナなら誰でも知っていること
でした。

麻原家族の教団裏支配の証言 ⑥広末晃敏

 (2012-03-13 19:34:35 の記事)

 
麻原の家族が、アレフ教団を裏支配していることについての証言を
広末晃敏個人総括文から、抜粋してご紹介します。
※アレフ脱会前の2003年頃の出来事です。

広末晃敏プロフィール(二番目)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●上祐改革の突然のストップ
 (2003年)
 
ところが、それからわずか3カ月ほどの2003年6月、上祐は定期的に集中修行に入るようになり、
同年10月には無期限の完全な修行入りとなって、一般信者から隔離されるようになりました。
一般信者に対しては「疲れがたまっているので回復のための修行」と説明されていました。
それにともない、上祐主導の改革はストップし、
教団は麻原個人崇拝カラーをどんどん強めていきました。つまり、昔に回帰していったのです。
会合の場で、いったんは皆で一致して改革に賛成したにもかかわらずです。

そして、上祐批判が始まりました。つまり

「上祐の改革は間違っていた」
「グルを犠牲にして"国民への愛"を説くのは間違いだった」
「上祐は魔境であった」
「"グル外し"をしておかしくなってしまった」
「上祐の言うことを聞いてはならない」

等と主張する「お話会」という名称の会合が、2003年後半から、
一部信者らによって繰り返し開かれるようになったのです。
この「お話会」は、建前上は教団非公式のものでしたが、
実質的には、大部分の信者が参加して話を聞くように求められました。
要するに、教団公式会合のようなものでした。

私は、この「お話会」には疑問を感じました。
もちろん、もともと上祐の改革に賛同していたからですが、
それ以外にも、お話会のやり方自体にも問題があると思ったのです。
なぜなら、お話会の内容のメインは、上祐に対する猛烈な批判なのですが、
当の上祐は修行に入れられ、信者から隔離され、
何の発言権、抗弁権も与えられていなかったからです。

つまり、法務部の私からすれば、まるで「欠席裁判」のように見えたのです。
このような欠席裁判で、一方的な批判を上祐に浴びせ続けるのはフェアではなく、
教団をまたいたずらに社会と対立させる方向に持っていくのも、
大変問題だと感じたのでした。

そこで、私は、こうした形での上祐批判は問題だという趣旨の発言を、
教団の中で繰り返したのでした。

●改革ストップの背後に松本家の存在 (2004年)

すると、このような上祐改革支持の私の発言が、たちまち松本家へ伝えられたようで、
松本家サイドから、私に牽制がかかり始めました。

松本家に近い複数の幹部から、

「私の発言を松本家が悲しんでいる、上祐は魔境でおかしいのだ

等と言われ、中には相当きつい表現で私を批判してくる幹部もいました。
それは2004年になってからのことでした。

このことから、上祐排撃の背後に松本家の存在があることが明確になりました
(このあたりの詳細については、この後アレフ代表に就任する野田成人による
『革命か戦争か―オウムはグローバル資本主義への警鐘だった』〈サイゾー刊〉にも記されています)。

また、上祐改革の一環として、麻原の説法集『ファイナルスピーチ』を
 
一部改変したことは先ほど述べたとおりですが、
この改変作業について、松本家に近いある信者が

「説法を勝手に修正して、松本家の皆さんが悲しんでいる」

と述べて、批判してきたこともありました。

2004年は、こうした感じで
「反上祐で松本家支持」という風潮が、教団内で圧倒的かつ支配的でした。
そんな中を、私をはじめとするごく少数の上祐支持の信者が、
細々と発言を続けているという状況でした。

というのも、教団では、松本家の人々は、きわめて高い地位を与えられていましたから、
無理もありません。
麻原は、1996年の破防法手続の際に、教祖の地位を降りましたが、
その際に第二代教祖として指名したのが、松本家の長男と次男でした。

また、それ以外の長女から四女についても、
「全てのステージの上に置く」と規定していましたから、
正大師というステージにあった上祐よりも、
松本家の人々は、はるかに教団内の地位が高かったのです。

松本家の人々は、麻原が絶対視・神格化されていた状況の中では、
ほとんど神に準じるような扱いを受けてきた
のであり、
その前では教団代表の上祐も吹き飛んでしまうような権威がありました。

ですから、上祐主導の改革を批判し、上祐を封じ込めることは、
松本家にとってみれば易しいことで、
だからこそ大部分の信者は、
急きょ手のひらを返して上祐の改革に反対し、松本家に賛同したのです。

グルである麻原の意思に沿うことが最も価値あるとされていた教団の中では、
上祐よりも地位が高いと麻原自身が定めた松本家の人々に従わないということは、
すなわち麻原への反逆を意味することになる
のです。

そういう意味では、私が麻原へ"反逆"し出したのは、
この時期からということになるのかもしれません。

●上祐派(代表派)を旗揚げする

私は松本家サイドの言うことには納得できず、度重なる説得を受けましたが、
応じませんでした。


「上祐の言うことを聞くことはグルの意思に反することになる」
「グルへの裏切りになる」
そういう意味の忠告を受けたことも何度かあります。

ですが、私にとっては、松本家の言うことに従うよりも、つまりグルの意思に従うよりも、
自分自身の良心に従いたいという気持ちが強まっていました。

グルの意思を主張する人たちは、
この教団と社会との対立を解決するための方法を持ち合わせていない、
社会の人たちの苦しみや教団への反感、
そしてそこから生じている教団信者や元信者の苦しみも解決しようとしていない、
ただ単にグルにすがれば、ひたすらグルの救済を待てばよいという消極的な考えだけだ、
これが本当の仏の道であろうか、本当に人々のためになる道なのだろうか
――という私の心の中の叫びが、いわゆる「グルの意思」に反逆する道を選ばせたのです。

そういうと何だか格好良く聞こえますが、
それも、上祐が先鞭を付けていたからこそ、私にできたことなのかもしれません。

そ う思っていたときに、上祐と会う機会が訪れました。2004年当時は、上祐は、一般信者との接触を禁じられ、自室で修行をさせられていました。あるとき、 警察か公安調査庁が、強制捜査か立入検査のために上祐の部屋に入った際、私は立会人として上祐の部屋に入り込み、立ち会いました。当局が引き揚げた後、私 は上祐と二人だけになるチャンスがあったので、すかさず、上祐や改革について教団でいろいろ批判されていることをどう思うか、尋ねてみたのです。
私は、てっきり上祐から、いろいろな反論があるものと予想していました。しかし、意に反して、上祐の答えは「何が正しいか正しくないか、あれかこれかという論争を超えたところに、真実はある」というものでした。
私はそれを聞いて、ハッとし、その吹っ切れた様を見て、少なくとも上祐を批判している人たちが言っているような魔境状態だとは上祐のことを思えませんでした。むしろ、批判している人たちとは次元の違った境地に至っているように見えました。

 それを機に、上祐と連絡をとり始めました。ちょうどその時期、上祐が原告になっている民事裁判があったので、その打ち合わせのためという口実で接触する機会を持てたということも奏功しました。
  私は、上祐と話を重ねた結果、かつての改革は、社会との調和を重視するという観点から基本的には間違ってはいないという確信を深めました。そこで、それま でに同調していた数少ない仲間と一緒に、私を含むたった4名で、上祐支持をアピールする会合を公然と本部施設で開いたのです。2004年11月末のことで す。そこで、上祐改革の正当性について訴えました。

その会合には、上祐を批判する人たちも大勢訪れ、かなりの論戦となりました。
それをきっかけとして、上祐を支持する人たちが徐々に集まり始め、
「代表派」を名乗るようになりました。
実権を奪われていたとはいえ、一応は上祐が教団の代表だったからです。

これが「代表派」の旗揚げとなりました
(なお、これ以降は、文意をわかりやすくするため、「代表派」のことを「上祐派」と記します)。

その一方、上祐を批判していた多くの人たちも、さらなる結束を固めていきました。
この人たちは当初、麻原の意思を正統に受け継ぐ者たちという意味で「正統派」を自称しましたが、
その後、そもそもこれは派閥争いではない、
上祐派は派閥などではない、単なる魔境の集団である
というスタンスに立って、自らを派閥とする呼称はやめたようです。

ただし、私たちは便宜上、「代表(上祐)派に反対する人たち」という意味で「反代表派」と呼んでいました
(以下の文中では「反代表派」のことを「反上祐派」と記します)

●上祐派と反上祐派の衝突の激化

こうして上祐派が旗揚げされたことで、2005年になると、反上祐派(こちらの方が圧倒的多数でしたが)は、
上祐派の封じ込めのための活動を盛んにしていきました。

反上祐派は、再び「お話会」という会合を繰り返し開いて、
上祐改革への反省のないまま上祐が活動を再開するのは許せない」
と主張をしました。

反上祐派のスタンスは、麻原を表に出さず仏教の空を追求するという上祐の改革は、
信者を麻原から引き離すものだったから反省すべきである、というものでした。
 
そして2005年5月、上祐が、長野県の戸隠神社一帯で修行をしたことを突き止めた反上祐派は、

「神社で修行するのは、やはり魔境である証拠」

として、上祐を激しく批判しました。

それも、数十名以上が集まる幹部会合の場で、上祐不在の場所で、
上祐への問い合わせを事前にすることなく、いきなり発表して、批判しました。
これも欠席裁判のようなものでした。

従来の麻原や教団の考えでは、
麻原が許可を出した場所や教団施設は聖なる場所だが、
そうではない一般の神社・仏閣は、エネルギー状態の悪い魔境エリアだとされてきました。
そのような神社で修行をする上祐も、当然に魔境だとされたわけです。

私たちは、神道はともかく仏教には親しみを感じてきた信者らに配慮し、

「神社といっても、もともとは観音信仰の寺院があった場所であり、
つまりオウム・アレフで親しんできた仏教と縁の深い場所である」と説明しました。

しかし、

「とにかく一般の神社・仏閣は全部ダメ」

ということで、全く受けいれられませんでした。
自分たち以外の教団を全面否定するというカルトの典型的な特徴が明確にあらわれていました。
こうして、上祐批判がいっそう激しく展開されるようになりました。

麻原家族の教団裏支配の証言 ⑤細川美香

 (2012-03-12 19:10:52 の記事)

 
麻原の家族が、アレフ教団を裏支配していることについての証言を、
細川美香の個人総括文から、抜粋してご紹介します。
※アレフ脱会前の2003年頃の出来事です。

細川美香プロフィール(三番目)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●上祐代表の改革の頓挫と、松本家の人たちへの失望2003年)

2003年に入ると、今までのアーレフのやり方では、よくないのではないか
ということにより、改革がスタートしてきました。これは麻原色をなくしていく、というものでした。

この改革は、初めこそ、勢いに乗っていましたが、改革への反発が生じはじめ、
徐々に動きが鈍くなっていき、ついには、頓挫することになりました。
そして、私にとっては、その頓挫は、突然に起こったのです。
2003年の6月の下旬のことです。

その日は、烏山本部に道場のリーダー格の人が集まり、上祐代表とミーティングを行っていました。
ミーティングが終わり、その帰り道に仲間の一人と喫茶店に入り、
法則の話など、いろんな話をしていたところ、携帯電話が鳴りました。

その電話に出てみると、聞き慣れない声で、「お姉さん、誰だかわかる?」と言われました。
初めはわからなかったので、「誰でしょう、よくわかりません。」と答えました。
そして、沈黙何十秒後に、「もしかして、アーチャリー正大師ですか?」といったところ、
「忘れてしまうなんて、お姉さんひどいね」と言われたので、
「そんなの無理ないですよ、7年以上話をしていないわけですから」と言いました。

アーチャリー正大師とは、麻原の三女で、松本麗華さんのことです。
彼女はなにか周りをひどく警戒しているようで、周りに誰かいないかを確認してから、話を始めました。

その内容は、まずは、私の個人的な話から始まり、そのことについて、

お姉さんは、尊師(麻原)との縁を傷つけた。
このままだと地獄に堕ちるから、このマントラを唱えたほうが良い
」と言われました。

れは、脅しと同じような感じでした。
その後
シャクティーパットの影響で、上祐代表の調子が悪い、おかしい

という話になり、

上祐代表を修行に入れ たい

と言うに話になりました。
そして、
そのために協力して欲しいことがある

ということでした。
できれば、直接会って話をしたいということでしたので、指定された場所に向かいました。

その時、一緒にいた仲間は、同じころ二宮さんから電話をもらっており、
お互いに話の内容については触れず、これから何が起こるのかな、
という思いを抱きつつ、一緒に電車に乗ったのです。

 駅に着いて、アーチャリー正大師を待っている間、生きた心地がしませんでした。
なぜなら、この6月には、私のとって大きな変化出来事がありましたが、
それについても悩んでいる時期でもあり、
アーチャリー正大師の話次第では、どうなるかわからない、と思ったからなのです。

「ああ、私はなんてカルマが悪いんだろう」と、半分、泣きそうになる気持ちを抑え、
緊張しながら、彼女が来るのを待っていました。

●松本家の人々に再会する

そして、約7年ぶりにアーチャリー正大師と再会しました。
彼女は背が伸びており、女性らしくなっていました。
駅の改札を出て、あまり人目につかないところで、立ち話で2時間くらいだったでしょうか、話を聞きました。
 
その内容は、ひたすら上祐代表の悪口(と思えた)でした。

彼女の話は、私が腑に落ちない点がいくつかあったのですが、
ここで逆らっても仕方がない、と思い、ひたすら話を聞いていました。

幾分、話をしているうちに、私の緊張も取れていき、十分、話を伝えきれたと
思った彼女は、
「お姉さん、だいぶ理解したみたいだね。」と言い、
「次は、もっとびっくりさせてあげる」と言われ、私を次の場所に連れて行きました。

再び電車に乗り、とある駅で降り、そこからしばらく歩いて着いた場所は、カラオケボックスでした。
そのまま促され、部屋に入ると、そこには、なんと、次女であるカーリー、
麻原の奥さんである、知子さん(現松本明香里)がいた
のです。
そして、二宮さん、その時、一緒にいた仲間も、すでにその部屋にいました。

私たちは久し振りの再会に、多少の世間話や、昔話をしました。
その後、現状の話を少しされました。 
そして、まだ、今から人がここに来るから、呼ぶまで、違う部屋で待機しているように言われました。

違う部屋に行き、もう一人の仲間と待っていたら、村岡さんが来ました。
彼女はこの成り行きを知っているようで、余裕な感じを受けました。
呼ばれるまで、カラオケを歌ったり、話しをしていました。

しばらくすると、先ほどの部屋に呼ばれましたので、
行ってみると、そこには数名の道場活動の師の人達がいました。
そして、三女が、上祐代表の問題点をいくつか話をし、最後に、

今日、ここで話をしたことは、決して誰にも言わないように。
 この場所に集まった人達同士でも話をしないように。
 上祐代表にも、もちろん言わないように
」と、きつく言われたのです。
 
さらに、
せっかくだから、長男、次男に対して、
 お布施ができる良い機会だから、みんなお布施したらどう
と言われました。

私はそれについては、抵抗があったものの、他のみんなが素直にお布施するのを見て、
「ここでしないのも、今後、活動がしづらくなるから、形だけでもしておこう」と思い、お布施をしました。

話し合いが終わった時間は、深夜になっていましたので、
カラオケボックスで始発が来るまで待ちました。

その間、もう一人の仲間と、「どうしよう、大変なことになったね」と、
お互いに言い、今は気分を変えるしかない、ということになり、
時間になるまでカラオケを歌い、なんとか自分の気持ちを紛らわしたのです。

●上祐代表にも呼ばれる

しかし、そこで待っている間に、上祐代表の秘書から電話が入ってきたのです。
緊張しながら電話にでたところ、明日の朝7時から東京道場で代表がミーティングをしたい、
と言っているが、来れるか、ということでした。

私は、「大丈夫です」と、返事をしたものの、
「どうしよう、明日、上祐代表に会わないといけない。
でも、今日の出来事を気付かれてはいけないから。困ったな」と思っていたのです。

そして、次の日の朝、ミーティングで上祐代表に会いましたが、
昨日の事がバレたら困ると思い、まともに、顔を見ることができませんでした。

ミーティングを進めているうちに、昨日ミーティングに参加した師の人たちを乗せた車が、
東名高速で事故を起こしたという知らせが入ってきました。

私は即座に、「昨日の人たちだ。やっぱり、あの出来事は、良くなかったんだ」と思い、
ますます、どうして良いかわからず、考え込んでしまいました。

なんとかその場をやり過ごし、船橋道場に戻りました。
しかし、昨日の出来事が、そして、事故のことが頭をぐるぐる周り、ワークどころではありませんでした。
そんな中でも、上祐代表が出した指示に反発するかのように、違う指示が回ってくるのです。
私は頭が混乱し、苦しみもピークに達していました。

もう、こんな状態では、ワークもできない。そして、正大師同士で争っている。
こんな教団で今後、続けていくこともできないと思い、出家して以来、初めて教団を出ることを考えました。

そんな状況に陥っているとき、先に麻原の三女に会ったある師の人から、
私の様子がおかしいことを聞いた上祐代表が、心配して電話をしてきたのです。

だからと言って、本当のことを話をすることはできませんから、
最初は聞かれたことに対して、お話しできません、と答えました。

しかし、代表は「もう、知っているから、話をしなさい」と言いましたので、
私は、泣きながら、
「もう、こんな教団ではやっていくことはできません。代表に対しても疑念があります。」と叫びました。
 

それに対して代表は、話を聞くから、すぐに烏山に来るように言われたので、準備をし、私は烏山に行きました。
烏山に着き、上祐代表に会い、私は自分の体験したこと、そこから出た疑念について、質問しました。
そして、しばらく話しをした後、違う部屋で待機しているように言われ、待っていました。

そこで待っているとき、三女から何度も携帯に電話が入りましたが、一度も出ませんでした。
そして、その日のお昼過ぎ、二宮氏が電話を私に持ってきて、
出るように言われたので、出てみたところ、三女からでした。

三女は、私に、「なぜ電話にでなかったか」を聞き、
次に、
三女に会った人たちがその直後に事故を起こした件について、
「上祐代表にその話をしたのは私なのか」と聞かれたので、「
そうです」と答えました。

●混乱する教団の中で麻原や事件のことを考える
 
この2003年の6月の後、10月に至って、上祐代表は、完全に修行に籠もる、
すなわち、教団の活動から離れることになりました(離されました)。

そして、教団は混乱をきわめていました。
反上祐派と言われる人たちが、いろんなところで、「上祐代表の改革は失敗だった」
という話をするための「お話会」と呼ばれる会合が続けられていました。

私も一度、誘われたので、参加して話を聞いてみました。
話の内容は、上祐代表がおかしくなっていく過程、それに伴い、おかしな出来事が起きた、という話しの展開でした。

しかし、私がその話を聞いて思ったことは、話の内容はこじつけが多く、
無理な論理展開をしており、私には納得できない事が多くありました。
疑問に感じたこと、納得できないことを、お話会が終わった後に、いくつか質問をしました。
当然、明確な回答はもらえませんでした。

こんなお話会に出ても仕方ないな、と思い、今度誘われた時は、断ろうと思いました。
そんな心配をしなくても、その後は、一度も、お話会には誘われませんでした。

その一方で、私は、2003年の終わりから2004年の初冬にかけて、
麻原のこと、そして、自分の今後の信仰形態、教団のあり方について、深く考えるようになっていきました。

麻原家族の教団裏支配の証言 ④宗形真紀子

 (2012-03-11 18:43:01 の記事)

麻原の家族(妻と三女が中心)が、アレフ教団を裏から支配している事実についての
宗形真紀子の証言を、書籍『二十歳からの20年間―――オウムの青春の魔境を超えてから
抜粋してお伝えします。

※アレフ脱会前の2003年~2004年に、麻原家の家族(妻と三女)の関与により経験した出来事です。


宗形真紀子プロフィール 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●突然の、教団活動からの排除


 それから一ヶ月ほど経った二〇〇三年の六月に、さらに、予想外の出来事が起こりました。

 ある日突然、わたしは、麻原家(三女)から、上祐と一緒に教団活動を排除され、修行入りを命じられてしまったのです。

 麻原家は、逮捕されたことでアレフ教団に入会していなかったものの、その後、麻原の妻の松本知子が出所して麻原家に戻った影響もあってか、このときから秘密裏に教団運営の指示を出すようになっていったのです。

 麻原の三女や妻たちは、教団を改革していこうとする上祐の活動をよく思わなかったために、ひそかに上祐を教団活動から外すための協力者を募って準備していたということでした。

 表向きには「修行入り」という名目でしたが、実質は、教団活動からの排除でした。私は持っていた携帯電話やお金やパソコンなどを没収され、東京から長野県の郊外にある施設へと隔離されました。

 上祐は実質、麻原家(三女ら)により監視役をつけられ自室マンションに閉じこもる、謹慎のような処遇となりました。

 それまで一緒にやってきていた、修行仲間だと思っていた幹部の友人たちすべてが、麻原の家族たちの指示に従い、一夜にして、豹変したように、上祐や、上祐の路線を進めていたわたしなどを「麻原の意思を外した魔境」(悪魔が取り憑いている)と断定して糾弾する側に回ったのです。

 わたしは、最初は、その突然の、話し合いの余地のない理不尽なやり方に、まったく納得がいかず苦しみました。上祐が教団に戻ってくる前は、崩壊寸前の教団を立て直すことができるのは上祐しかいないとすがりつくように頼り、その後、上祐のおかげで、崩壊寸前の教団をなんとか立て直すことができたにもかかわらず、上層部のみんなが、その恩を仇で返すような行動に出たように感じられて、わたしはとてもショックを受けました。

 麻原三女から電話がかかってきたときには、わたしは上記のようなことを述べて、激しく反発しましたが、わたしも、上祐も、麻原の意思を外している「魔境」に入って、麻原への帰依が足りなくなっているから、今は修行に入って、麻原を観想し、麻原にすがって救ってもらうしかないということでした。

 麻原家(三女と妻ら)の主張では、上祐は、悪魔が取り憑いている、プライド魔境、権力魔境、性欲魔境などと言われていました。上祐はグルに成り代わろうとする野望を持って自らのグル化をすすめ、教団改革と称して、グルの絶対性を否定したり、グルが禁じた「外道」の神社仏閣に行ったり、グルと違う「外道」の教えを説いたりして、グルの意思を外しているということでした。当然、それを精力的に手伝っていたわたしも、同じように、グルの意思を外し、悪魔が取り憑いた魔境に陥っているということでした。


●荒木が麻原家の指示を受けて行動

 わたしが教団活動から排除されてしばらくすると、教団の中では、上祐への反発が、いっそう激化していきました。上祐やわたしなどのいないところで「上祐やわたしなどが、いかに麻原の意思を外した魔境であるか」と糾弾する「お話し会」という活動などが活発化していきました。

 その中心人物は、信じられないことに、少し前まで一緒に上祐の下で秘書をしていた荒木でした。わたしは最初、「どうして荒木君が?」と耳を疑いましたが、荒木が、麻原家の指示を受けて行動していることなどを知り、徐々に事情がわかってきました。

 その理由は、麻原に帰依する人たちからすれば、麻原の意思と違うことをするとしか思えない、上祐やわたしなどに耐えられないということでした。

 特に、絶対で完全で、神の化身で、最終解脱者であるはずの麻原が、上祐の言うように「悪業や失敗を犯した存在」となると、信仰が続けられなくなってしまうというオウム・麻原信仰の根幹にかかわる反発だったのです。

 幹部の会合では、上祐を呼び捨てにして、嫌悪丸出しの傲慢な態度で、直接的に罵倒する人たちもいました。わたし自身も、あからさまに個人的な批判や皮肉や悪口の的になりました。ほかにもいろいろあるのですが、これらの非常に激しい排除の行動を見て、逆におかしいと言って辞めていく人も多数出たほどでした。

 それらの非常に激しい排除の行動に直面したわたしは、しばらく見つめていくうちに、同じ信仰を持つ人たちに対しては、たいへん優しくいい人たちなのに、同じ信仰でないと思った人に対しては、自分たちが信じる「真理」の名のもとに、豹変したようになって、非常に苛烈な行動に出るという性質に気づかされました。

 そして、まさにそれこそが、社会から見れば、まさしく自分が実践してきた「オウムそのもの」なのではないかと感じ、その宗教テロの原因はこういったことだったのかと愕然としました。わたしが今まで、オウムの側から社会に対してやってきたことを、教団内部での意見対立を通して、過去の自分の姿をそこに見せられているように感じ、たいへん考えさせられました。

 彼らが、「グルを外した」という意味で上祐やわたしなどを批判するのに使う言葉「魔境」とは、本当は、オウムそのもののこういった性質こそを指しているのだと気づきました。


(略)

●麻原家の反対を押し切り、上祐が活動を再開

 二〇〇四年の一一月には、上祐は、麻原家やその意向に従う人たちの強い反対を押し切るかたちで、上祐の教団改革を支持する人たちとともに、教団活動に復帰したことを聞きました。
 このときは、麻原家の家族が、教団役員を無視し、独裁的に教団内の指示を出すようになり、様々な混乱が生じていました。

 最後に、教団分裂の様子と、オウム・アレフを脱会するまでの経緯について、補足しておきたいと思います。

 

●アレフ信者の上祐への反発の理由

  重大な問題は、同じ教団内に、「事件を否定し認め、麻原を相対化すると、オウム・麻原信仰が維持できなくなる、それは嫌だ」という人たちが、想像よりもたくさんいたことがわかったということでした。

 そのため、上祐が二〇〇四年の一一月に、麻原家とそれに従う人たちの強い反対を押し切る形で、教団活動に復帰した後、わたしは友人たちと一緒に、事件については、ブログなどで以下のことを行ないました。

 これまでの事実の説明をし、現象をありのままに見ない信仰実践が盲信・狂信となる恐れがあることを警告し、事件関与を否定したり、事件がなかったかのような振る舞いをしたりすることの問題を訴え、内部信者へのリンチ殺人を含めた事件の年表を掲示したりしました。

 しかし、これらは大きな反発を呼び、逆にあの手この手で、活動を抑え込もうとされてしまいました。上祐らと接触した人を、かつてのわたしと同じように、アレフ教団活動から排除して修行に入れ、見せしめとしたり(このことは「魔女狩り」と呼ばれていた)、「上祐には悪魔が取り憑いているので、上祐と話すと、グルとの縁が切れて地獄に堕ちる」と圧力をかけたり、上祐の事実に反する批判を広めたり、ブログ禁止令を出したりといった具合でした。

 これらの活動により、教団内の信者たちは、おのずと自身の選択を迫られるかたちとなっていき、実質的に内部対立が激化し、大きく分けると反上祐派・上祐派・中間派の三つに分裂していきました。

 

●オウム・アレフからの脱会

  こうして二〇〇六年の初頭まで、アレフ教団との話し合いを何度も試みましたが、宗教観・社会観がまったく違うため、平行線をたどり、最終的には、主流派(反上祐派)が話し合いを拒否するかたちで決別していきました。

 わたしは、反上祐派の激しい反発を直接的に経験した結果、同じ教団で十数年もすごしてきたにもかかわらず、人によって宗教観がまったく違っていたことや、この一八〇度逆とも言える転換が、一度はまった信者には、非常に難しいことを思い知りました。理解してもらえるだろう、と思っていた人でも、かなり多くの人が賛同してはくれませんでした。


麻原家族の教団裏支配の証言 ③上祐史浩 

 (2012-03-09 23:40:47 の記事)

 
麻原の家族が、アレフ教団を裏から支配している事実についての
上祐史浩の証言を、上祐史浩個人の総括文(オウムの教訓サイト)より掲載します。


■松本家の反対で、教団改革が停止される
(2003年後半)

 私は改革を進めようとしたが、一言でいえば、信者の麻原信仰と、それを維持しようとする麻原の家族によって、2003年の4月頃からブレーキが掛かり始めた。

  教団改革を止めた麻原の家族の中心は、麻原の妻・三女・次女であるが、この辺の動きは、当時正悟師という最高幹部の地位にあった野田成人が、月刊誌(『現 代』2008年01月01日号 記事①  記事②)で告白している。

それによると、麻原の家族が、私に秘して、彼ら正悟師に連絡をし、私を教団運営から外すための協力を求め られたという。

 その結果、麻原家族と、その要求を受け入れた正悟師達の意見の結果として、2003年の6月頃から、私は、教団運 営を離れて、いわゆる籠もった形の修行に入らざるを得ない状況となった(いわゆる世間で上祐の幽閉と呼ばれる)。そして、10月の末からは、一切の教団運 営から退き、信者の前から姿を消す形になった。

 今思えば、仮に、この時点で、私が、強い意思を持って、自分の考えを貫いて、教団 運営から身を引かずに、自分に賛同する人たちと共に、自分の道を歩んだならば、後に麻原信仰を脱却していく者達は、より多かったと思う。しかし、その当時 の私は、徐々に変化を始めていたとはいえ、依然として、麻原への依存が残っており、そのために、麻原の家族に従う考え方からも脱却できていなかった。

 特に、私が妥協しなければ、教団の中に闘争が起こり、教団分裂に至ることは必然であり、オウムの教義では、教団分裂は無間地獄に落ちる悪業とされていた。また、麻原の家族は、父親譲りの表現で、「戦争だ」「戦う」という言葉で、明確に警告していた。(中略)

 そして、家族とそれに従う信者達は、2003年の6月以降、具体的な教団運営において、私に賛同する者や、明確に反対しない者について、「魔境である」、 「悪魔に取り憑かれている」と批判し、教団活動から排斥した。

また、信者に対しては、私達と接触しないように圧力をかけ、接触すれば批判し、活動から排斥 することもあった。


●反代表派の中の大きな変化が始まる


2006年3月には、もう一つ大きな変化があった。村岡達子を含めた正統派の幹部が、中間派に転じるという事態だった。

転向した村岡らは、正統派からは裏切り者扱いを受け、教団活動から排除され、後に脱会する。野田成人を含めた他の正悟師も、一人を除いては脱会する。

村岡の転向は、麻原家族の中での意見の対立だった。

麻原の四女と、麻原の三女と妻の間の対立で、三女や母親に反発して松本家を出て、村岡らと個人的に接触したところ、村岡らが共鳴し、正統派を離脱した。

同時に、正統派は、代表派を物理的・経済的に切り離しそうとしていた。正統派の信者の一部には、魔境である代表派とは一緒の施設に住みたくないとか、代表派が含まれている教団の活動には布施をしたくないと考える者が出てきたということだった。

それと同時に、代表派の方では、前に述べたとおり、私を含めたメンバーの心境の変化が徐々に進み、アレフ教団から離れて、麻原を脱却した、新たな団体を作り、新しい独自の道を歩くことを考え始めていた。

また、正統派との話し合いの経験を通して、正統派の物の考え方が変わるには、もっと時間が必要だろうと思われた。

この結果、代表派と正統派の居住区域を分別し。会計を独立させることで合意した。その合意と前後して、5月半ばには、私が、脱会して新団体を設立する意図や趣旨を説明した。


●麻原家族への捜査と反社会的な行為

この頃、教団は、麻原の妻が描いた 宗教画に対する使用料の支払いという名目で、麻原家族に対する多額の援助をしていた。

しかし、家族には、その娘と同居する者を含め、家族とともに脱会した 形をとった信者による布施があり、現在の状況を考えると、教団からの多額の援助は社会の理解を得られず、問題になるだろうと考えた。

そこで、正統派に対し て繰り返し、それを取りやめるか、経済的な理由でどうしても必要ならば、家族から事情説明を受けるように求めたが、家族への帰依を背景として、彼らは拒絶 した。
しかし、7月には、警視庁が、麻原家族とその関係者を強制捜査する事態が発生し、それに伴い、正統派から家族に多額のお金 が流れていることが報道されて、批判される事態となった。他の正悟師も、正統派に再考を求めたが拒絶された(脱会後は、よく分からないが、今も続いている 可能性がある)。

さらに、詐欺裁判の問題があった。

大学からオウム関係者として入学拒否をされた三女が、自分は教団と関係ないと偽って、大学に勝訴して賠償金を得た裁判がある。これについても警視庁は、摘発を検討したという情報があった(実際にはされなかったが)。

また、8月には、家族から家出をした四女が、家族から自立するために、江川紹子氏を後見人とする裁判を提起する中で、「家族は教団と関係ないと嘘をついて、教団を支配し、信者に貢がせて贅沢な生活をしている」等と述べ、事態は悪化し続けた。

 ただし、2008年になると、この四女が、実は、江川紹子氏との約束に反して、秘密裏に自分に従う麻原信者のグループを作る活動をし始め、それに疑問を 持った彼女の側近信者が、私を含め、ひかりの輪に連絡をしてきた。

それが江川氏の知るところになると、四女は江川氏から離れ、江川氏も、後見人を辞任する という事態が発生した。

麻原の家族が、教団を裏支配するようになる以前の経緯

 (2012-03-09 23:13:36 の記事)

 
麻原の家族が、2003年から、アレフを、ひそかに裏支配するようになった経緯については、
その事情をよく知る野田氏① 野田氏②の記事や、村岡氏の記事に掲載したとおりです。

それまで、麻原の家族は、1999年までのオウム真理教時代には、
すでに逮捕されていた松本明香里(旧知子)以外の家族は、
教団の中で、麻原に次ぐ最も上の位階にあり、教団運営に関わっていました。

しかし、家族らが2003年にアレフをひそかに裏支配するようになる前の
2000年に発足したアレフ教団には、麻原の家族らは、構成員には含まれていませんでした。
それは、彼らの逮捕によって、離れざるを得なかった事情によりました。
その経緯の詳細を以下に掲載しておきます。
 

上祐史浩個人総括文より抜粋

 こういった状況の中で、私は1999年の暮れに教団に戻りました。戻るとすぐに、私は、正悟師と麻原の家族らと、そして社会対応関係の担当幹部と話し合いをして、今後の対応について協議しました。その結果が、2000年初頭のいわゆるアーレフ体制の発足となります。
 私が戻ったときに受けた印象では、教団のリーダー達の意見は、非常に悲観的で、かつ、まとまっていない面がありました。

 (中略)

 教団のまとまりという点については、麻原の家族と正悟師の間の対立が多少なりともありましたが、それは、麻原の家族がアーレフには入会せず、教団の運営から離れ、私と正悟師らが教団を主に運営することになったため、それ以上は大きな問題とはなりませんでした。

 麻原の家族が教団を離れたのは、アーレフ体制の発足直前に、麻原の長女と次女・三女との間で争いが起き、長女の住居に不法侵入したという容疑で次女・三女が警察に逮捕されたことがきっかけです。

 次女と三女が逮捕・勾留される中で、長男は児童相談所に保護されました。こうして、麻原の家族は、教団を自分の意志で離れたというよりも、離れざるを得なくなったのです。

 

宗形真紀子個人総括文より抜粋


松本家の子女全員の脱会

 なお、アーレフが発足する直前に、通称「旭村事件」といわれる事件により、松本家の子女が全員オウム教団を離れざるを得ない事態が起こりました。

 それは、松本家の家族間の対立(兄弟げんか)で、長女対次女・三女という図式で、長女の部屋に次女と三女が不法侵入したという容疑で、次女と三女が警察に逮捕され、少年院行きとなるという事態でした。

 長男は児童相談所に保護され、精神を病んでいた長女はその事件のあと、家出して放浪生活中に窃盗罪で逮捕され、すぐに釈放されたものの、精神病院に入院、通院する生活となってしまいました。
 このようなことにより、松本家の子女は全員、自らの意志というよりも、教団を離れざるを得ない事情に各自がなっていき、自動的にアーレフに入会せず、教団運営から離れざるを得なくなりました。

 これらの出来事により松本家の子女に対する幻滅感も広がり、「麻原の子女は麻原との血のつながりのために最もステージが高い」とされるそれまでの教団内でのステージ制度は崩壊の兆しを見せ始めました。

麻原家族の裏支配の証言 ②アレフを脱会した元幹部(村岡達子氏・元アレフ会長)

 (2012-03-08 22:40:05 の記事)

 
昨年、2011年の6月に、村岡達子氏がアレフを脱会していたことを、8月に出た週刊誌で知りました。

 脱会した「村岡達子」元アーレフ会長の「さらば麻原一家」
 (週刊新潮 2011年8月11・18日号)

との見出しの記事でした。

村岡達子氏(61)は、アレフの中の位階制度では、「正悟師」という
教団に数人ほどしかいない最高幹部の立場にあり、アレフの会長職を勤めていた人物です。

この見出しにあるとおり、村岡氏は、2007年にわたしたちがアレフを脱会するまでは、
麻原の家族の側に立って、上祐側のわたしたちと対立していましたので、
当然のことながら、麻原家族の、アレフ教団裏支配の実態をよく知る人物です。

しかし、心境の変化があったのか、半年以上前に、脱会していたようです。

前述の週刊誌にも、以下のように経緯が書かれていました。

  「6月6日付けで退会届を出しました。退会時の肩書きはありません。」

  「3年ぐらい前から、私は信者でありながら全く教団に関わっていない状態でした。
   追い出されるような形で(中略)教団所有のアパートに住んでいたのです。
   教団から私は“おかしい人”と思われていたんです」


上祐代表は、アレフ時代の2003年に、麻原を目立たなくする教団改革を始めたのですが、
それに猛反発した
麻原の妻の松本明香里(旧知子)や三女の麗華(アーチャリー)が、
アレフの構成員でないにもかかわらず、教団を裏から支配するようになっていったのです。

村岡氏は、記事の中で、以下のように述べています。

  「上祐さんが、“尊師のことを全面に出さないように”と、
   在家・出家の両方の信者を集めて呼びかける一方、
   三女は“上祐のことを放置しすぎた”と後悔していました。
   麻原一族は上祐さんに危機感を募らせ、実力で抑えにかかったのです」


その後、上祐代表は、修行と言う名目で実質、教団運営から外される形となり、
監視役もつけられたある意味幽閉状態のような状況になりました。
その当時の村岡氏は、麻原家族とともに、反上祐の姿勢を強め、上祐排斥の活動を精力的に行っていました。
その後、2004年に、上祐代表は、麻原家族の意向と反する形で、独自の活動を始めたため、
教団は、「上祐派」と「主流派(麻原家族派・反上祐派)」が対立を強めることとなりました。


 村岡氏は、記事の中で以下のように述べています。

  「そこからはもう、陣取り合戦みたいになって。
   尊師の奥さんは、”上祐は教団を乗っ取ろうとしている”
   と親しい信者たちにメールを送り付けていました。
   実際、仙台や船橋といった道場が上祐派に押さえられましたが、
   アーチャリー派も強かった。
   何しろ経理やメディアを握っていましたから」

 
その後、2006年になって、麻原四女が茨木県龍ケ崎市の家から出てきた後のことを、
村岡氏は記事中で以下のように述べています。

  「ある日、突然連絡があって”三女が長男に暴力をふるっている”と彼女が言うのです。
   それで相談に乗っているうちに彼女と通じるものがあると気がついたんです。(中略)
   上祐さんとアーチャリーの泥沼の抗争を収めるためには、
   2人(※妻と三女)より霊性の高い四女に教団に入ってもらうしかない。私はそう思ったのです」

 
しかし、その後、四女の影響力が大きくなってきたことを警戒した麻原の妻の松本明香里(旧知子)と三女の麗華は
四女を支持する村岡氏を、上祐代表や野田氏のように今度は教団運営から実質上外したため、
村岡氏は、昨年まで数年の間、教団の中で居場所のない状態が続いていたとのことでした。

このように、麻原の家族は、自分たちに従わない者を次々と外してくといった、
独裁体制のような運営を続けているため、現在のアレフの幹部は、
麻原の家族に従う者たちで構成されていると考えられます。

村岡氏は記事中で以下のように述べています。

 「尊師の奥さんが電話をかけてきて、”彼女(四女)の言うこと信じるの!?”と詰め寄られたこともありました」

以上のように、
麻原家族による、教団裏支配の状況は、多くの人が証言しています。

麻原家族の裏支配の証言 ①アレフを脱会した元幹部(野田成人氏)

(2012-03-06 22:58:57 の記事)

以下の記事でご紹介したとおり、
現在、アレフは、麻原の家族による教団裏支配の実態を隠蔽し、社会を欺いていますが、
>>「アレフ信者、松本死刑囚の妻子に指導仰ぐ文書」2012年1月24日読売新聞)
>>アレフが賠償契約締結を拒否する理由

その実態について、アレフを脱会した元幹部信者の証言をご紹介します。

野田成人氏は、アレフの幹部時代に、直接の、麻原家族との関わりがあったことから、
麻原の家族の裏支配の実態を、よく知る人物です。

野田氏は
 、2007年の上祐脱会後に、麻原家族支配下となったアレフ教団から除名される形で、
2009年に脱会、その後は、オウム時代の反省から、書籍『革命か戦争か』出版、

革命か戦争か―オウムはグローバル資本主義への警鐘だった革命か戦争か―オウムはグローバル資本主義への警鐘だった
(2010/03/11)
野田 成人

商品詳細を見る

トークショー出演「オウムって何?」 など、精力的な活動をしています。



1 雑誌『創』インタビュー 2007年5月号

ちょうど2007年に、上祐とわたしたちが脱会した後に、
アレフの新代表となった野田氏が、雑誌「創」のインタビューを受け、麻原家族との関係について
詳細に語った内容が、野田氏のブログ(「みどりの家族代表 野田成人のbrog」)に掲載されています。

例えば、


 「――上祐さんらとの分裂騒動を野田さんらはどんなふうに見ていたのですか。

  野田 この団体には「松本家は絶対」という暗黙の了解があるのですが、
   上祐はいろいろな写真を取り払うとか、教義の表現にしても麻原彰晃元代表を
   「世界でただひとりの最終解脱者」という部分を文言から抜き、ただの 「解脱者」にしてしまうとか、
   そういう行動をとりました。
   これは教団にとっても松本家にとっても非常に敏感な問題だったのです。
   松本家の上祐への批判的な 見方を受けて、信者達も「やっぱおかしいですよ」という感じになり、
   教団が混乱状態になっていきました。



以下、リンクでご紹介します。

>>◆雑誌「創」2007年5月号掲載インタビュー

 ◎はじめに  編集部
   本誌前号の上祐史浩元代表のインタビューは大きな反響を呼んだ。・・・
   さて、それに続いて今月は新代表となった野田成人さんのインタビューを掲載する。
   ・・・特に松本家との微妙な関係については、詳しくはほとんど報道されていないと言ってよい。
 ◎役員会と合同会議が対立
 ◎教団は二重権力状態に
 ◎教団は今、異論を
 ◎唱えられない雰囲気
 ◎松本家との関係をめぐり  
 ◎教団が分裂騒動に



2.「月刊現代」(2008年1月1日号)

もう一つ、野田氏は、2008年に、「月刊現代」(2008年1月1日号)で、さらに詳細な、実態を語っています。

上祐代表は、自身の総括文書の中で、次のように述べているとおり、野田氏は、当時、
麻原の妻の松本明香里や三女の麗華が教団裏支配を始めた事情に深く関わっていました。


 「一 言でいえば、麻原への信仰と、それに基づいた麻原の家族によって、
  私の進めようとした教団の改革は、2003年の4月頃からブレーキが掛かり始めました。」

 「教団改革を止めようとする麻原の家族の中心は、麻原の妻や次女や三女ですが、
  この辺の動きは、現在も、アーレフの代表である野田成人代表が、
  『月刊現代』の 2008年01月01日号で、
  麻原の家族が、私の知らないところで彼に連絡をし、
  私を教団運営から外すために協力を求められたという、裏側の事情
などにつ いて、
  詳しく語っていますが、彼の報告は、
  それが、私が直接関わっている部分に限っては、おおよそ事実のとおりです。」


 以下、野田氏のブログに、記事の全文が掲載されていますので、リンクでご紹介します。

>>「月刊現代」1

 「03年6月15日、私は松本家の三女に呼び出されました。
  3年半ぶりに会う三女はかなり大柄になっており、身長165cmの私と遜色ないほどでした。
  ちょっと清楚な女子大生風の服装に身を包んではいますが、信者には常に高圧的です。

  『マイトレーヤ正大師(上祐氏の宗教名)のやっていることがおかしいの。
   彼の言うことを聞かないで、陰で私に協力して』・・・

  『私が影で指示するから、それに従って。
  でも指示を
出しているっていうのは秘密
  『はぁ』
  『いい? 従える?』・・・」

>>「月刊現代」2

  『アーチャリー正大師に指示されたので、仕方なくしばらく修行してます』
   しかし、説法が終わると荒木広報部長が怒鳴るように私に言いました。

  『松本家の話はサマナの前でやる話ではないでしょう。
   社会融和上も問題があります!』
  教団内での彼の地位は私よりはるかに下。ナメられたものです(笑)。・・・

「アレフ信者、松本死刑囚の妻子に指導仰ぐ文書」の記事(読売2012年1月24日)

(2012-02-03  23:49:39 の記事)

先日、1月24日の読売新聞朝刊に、
アレフ信者、松本死刑囚の妻子に指導仰ぐ文書
との記事が掲載されていました。

 警視庁が昨年夏、「Aleph」(アレフ)の関係先から押収したパソコンに、麻原の妻子に、教団運営について指導を仰ぐ文章が見付かったとのことでしたが、
わたしたちは、麻原の家族による、教団裏支配の実態を、直接体験した者として知っていますので、このテーマで書いていきたいと思います。


------------------------------------------------------------------------
アレフ信者、松本死刑囚の妻子に指導仰ぐ文書
読売新聞 1月24日朝刊

 警視庁が昨年夏、オウム真理教主流派の団体「Aleph」(アレフ)の関係先から押収した
パソコンに、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚(56)の妻(53)や三女(28)に宛て、教団運営について指導を仰ぐ内容の文書が複数残されていたことが、捜査関係者への取材で分かった。

 教団側が公安調査庁に提出した信者名簿に家族の名前は記載されていないが、警視庁は、家族が松本死刑囚の影響力を背景に、依然として教団運営に深く関与しているとみている。

 捜査関係者によると、警視庁は昨年7月、アレフ信者が公安調査庁の立ち入り検査を妨害したとされる事件で、関係先として、東京都練馬区にある団体の施設を捜索した。その際、押収したアレフの出家信者のパソコンなどから、松本死刑囚の妻や三女宛ての文書が複数見つかった

 文書は、この出家信者らが作成したとみられる。例えば、2009年には刑事事件で服役後に出所した信者の受け入れについて、翌10年には死刑が確定した元教団幹部と信者の養子縁組などについて、それぞれ三女と妻に承諾を求める内容が書かれていた中には「(家族の教団への介入が明らかになると)教団つぶしの展開になるかも知れないので、絶対に避けなければならない」との記載もあった。

 警視庁は、一連の文書は妻や三女にメールなどで送られていたとみており、教団は現在も松本死刑囚の影響下にあり、家族とも親密な関係を保っている」としている。教団は近年、松本死刑囚を「尊師」と呼び、誕生日に生誕祭を開催するなど、「原点回帰」を強めているとされる。

 松本死刑囚の妻はかつて、松本死刑囚に次ぐ「正大師」の地位にあり、「郵政省大臣」として教団の出版物の編集やビデオ製作を担当していたが、信者リンチ殺害事件で殺人罪に問われ、2001年7月に懲役6年の実刑判決が確定。出所後は「アレフにかかわるつもりはない」とのコメントを発表し、その際、松本死刑囚との離婚の意思も表明したが、捜査関係者によると、離婚は確認できていないという。

 三女も以前は「アーチャリー」というホーリーネームで「正大師」の地位にあった。妻や三女は現在、埼玉県内で暮らしている。
www.yomiuri.co.jp/national/news/20120123-OYT1T01309.htm

-------------------------------------------------------------------


◆麻原の家族のアレフ教団を裏配の事実・上祐史浩の証言


 以下は、麻原の家族が、アレフ教団を裏から支配している事実についての上祐史浩の証言を、上祐史浩個人の総括文(オウムの教訓サイト)より掲載します。


■松本家の反対で、教団改革が停止される
(2003年後半)

私は、こうした教団改革を進めようとしましたが、麻原に対する信仰などを背景として、
それに反対する人たちがいました。
その結果として、最終的には、いわゆる代表派(上祐派)と非代表派(反上祐派)に分裂することになります。

とはいえ、当時の教団の状態は、かなり複雑であり、個人のプライバシーに関わる問題もありますので、
全てを網羅的に説明することは難しいと思いますが、
一 言でいえば、麻原への信仰と、それに基づいた麻原の家族によって
私の進めようとした教団の改革は、2003年の4月頃からブレーキが掛かり始めました。

教団改革を止めようとする麻原の家族の中心は、麻原の妻や次女や三女ですが、
この辺の動きは、現在も、アーレフの代表である野田成人代表が、月刊現代の 2008年01月01日号で、
麻原の家族が、私の知らないところで彼に連絡をし、私を教団運営から外すために協力を求められたという、
裏側の事情
などにつ いて、詳しく語っていますが、彼の報告は、
それが、私が直接関わっている部分に限っては、おおよそ事実のとおりです。

その結果、野田氏が報告しているとおり、松本家と、松本家の要求を受けた、
正悟師と呼ばれる他の教団の最高幹部の意見の結果として、2003年の6月頃から、
私は、教団運営を離れて、いわゆる籠もった形の修行に入らざるを得ない状況となりました。

7月には、松本家の要求のために、私は、私の進めようとした改革が、間違っていた
という主旨の発言を、幹部信者を集めた会合で話さざるを得ない状況となりました。
そして、10月の末からは、私は、一切の教団運営から退き、信者の前から姿を消す形になりました。

これは、私の本意では全くありませんでしたが、松本家が、教団活動の中で表立った行動ができないために、
代表である私が、彼らに替わって、そうせざるを得 なかっ
たという事情によるものです。
すなわち、改革が停止となっても、それからしばらくは、多くの人たちに対して、松本家の関与は、隠されていました

今から振り返るならば、この時点で、私が、強い意思を持って、自分の考えを貫いて、
教団運営から身を引かずに、自分に賛同する人たちと共に、自分の道を歩めばよかったと思います。

しかし、その当時の私は、前とは徐々に質が変わり始めていたとはいえ、依然として、
麻原の信仰と麻原に対する依存を続けており、麻原を絶対とし、その家族を高い地位に置く、
その教団での考え方から脱却できておらず、
実際の松本家の言動には、納得がいかなかったものの、自分の意志を貫くことは出来ませんでし た。

特に、私が妥協しなければ、教団の中に闘争が起こり、分裂に至るという問題がありました。
これは、実際に、松本家の人たちが、はっきりと私に警告していたことですから、
当時の私としては、大きな圧力になりました。

しかし、こうしていったんは、松本家や反上祐派に従っても、
その後、時間が経てば経つほど、彼らの信仰・思想や教団運営のあり方に対する疑問は、増大していって、
結局は、2004年末には、上祐派を形成して、2007年に、教団を脱会し、新団体を設立するに至ります。

その意味で、この2003年から、脱会に至る2007年までの間が、
私にとって、麻原とその家族に対する精神的な依存を完全に払拭するために必要な期間だったと思います。

■反代表派の中の大きな変化が始まる(2006年始め~夏まで)
 
さて、3月には、もう一つ別の大きな変化がありました。
それは、村岡達子氏や村松孝子氏といった反代表派の幹部が、
反代表派を離脱して中間派に転じるという事態でした。

これによって、反代表派は、中堅の幹部(師)においては、多数であるものの、
最高幹部(正悟師)については、二宮氏1人だけとなりました。

逆に言えば、野田成人氏、杉浦実氏、杉浦茂氏、村岡達子氏の4人は、
その後は、教団の中で、中間派と位置づけられることになっていきます。
そして、転向した 村岡氏らは、反代表派から裏切り者扱いを受けることになり、
反上祐派が支配している主だった教団活動からは、実質上、排除される結果になります。

さて、村岡氏等が離脱した背景には、その後、表面化していく、麻原の家族の中での意見の対立がありました。

それは、麻原の四女(識華氏)と、三女(麗華氏)や母親の知子氏の間の対立であり、
当時17歳の識華氏は、社会への融和を重視する考えを持っており、
反上祐派の考えを持つ三女や母親の行動に反発して、松本家を出て、
村岡氏らと個人的に接触したところ、村岡氏らも、それに共鳴して、反上祐派を離脱したというこ とです。

すなわち、教団の中で反上祐派が分裂を始めたわけですが、
その背景として、松本家の中でも分裂が始まったということです。
そして、私は、この反上祐派と中間派、そして、麻原の家族の中の分裂は、
私が脱会した後のアーレフにおいて、今後も大きな影響を与えるのではないかと考えています。


■教団と松本家の関係について

なお、この頃、私は、会議において、教団による松本家に対する多額の援助
(松本知子氏の描いた宗教画に対する使用料の支払い)については、
現在の状況を考えると、社会の理解を得られず、問題になるだろうと考えました。

そこで、反代表派に対して、繰り返してその取りやめ、ないしは、
経済的な理由によって取りやめることが出来ない場合には、
松本家からのその事情の説明を受けるように求めましたが、
麻原とその家族に対する帰依を背景として、反代表派の理解は得られませんでした。

しかし、7月には、警視庁が、松本家および周辺関係者を強制捜査する事態が発生し、
それに伴う報道において、反代表派の教団から松本家に多額のお金が流れていることが
公に報道
されて、批判される事態となりました。

その中で、松本家への絵画使用料の支払いの問題も批判されたので、今後は、私だけではなく、
中間派の野田氏や村岡氏が、反代表派の執行部に再考を求めましたが、
それも受け入れられることはなく、依然として、彼らは、松本家への支払いを続けている状態にあります


 そうしている内に、8月になると、松本家から家出をしていた四女の識華氏が、
麻原から正式に自立するために、江川紹子氏を後見人とするための裁判を提起 し、その中で、

「家族は教団と関係ないと嘘をついて、教団を支配しており、信者に貢がせて贅沢な生活をしている」等と述べ、
事態は悪化して続けています。

しかしながら、反代表派は、識華氏についても私と同様に、信者に対して、魔境等と位置づけて説明しており、
このような状況が変わるには、今しばらく時間がかかるのではないかと思います。

プロフィール

アレフ問題対策室

Author:アレフ問題対策室
■脱会のご支援■
「アレフ(オウム真理教の後継教団)」や、アレフを隠したヨガ教室からの脱会支援を行っています。(※ご本人、ご知人、ご家族からのご相談など100件近くに上ります)
■告発と対策■
今なお続く、アレフの諸問題の告発と対策を行っています。
■運営担当■
ひかりの輪STAFFの4人が運営しています。(山口雅彦・宗形真紀子・広末晃敏・細川美香)

カテゴリ
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR