オウム真理教の弟子たち・信者の人格分析② 「自己愛型社会」という視点から
(2012-04-10 16:35:05 の記事)
前回に続き、オウム真理教の弟子たち・信者の人格分析の② として、
「自己愛型社会」という視点から分析していきたいと思います。
日本において、明確に「自己愛型社会」 ということが言われだしたのは、
1980年代です。
自己愛型社会のキーワードをいくつか挙げれば、
「誇大自己」
「自己存在意義への欲求」
「劣等感と優越感」
「依存」
「被害妄想と誇大妄想」。
他には、
「自己特別視」
「責任転嫁」
「自己正当化」
「現実回避」
「自己愛的空想」もあるかと思います。
80年代に思春期を送っていた弟子たちの多くも当然、
上記の要素は多分に持っていたと思われます。
それを弟子たちに当てはめれば、
誰もが持っている「自己存在意義」「特別な存在であること」
への追求を背景として、
自分と他人を比較して、「劣等感と優越感」の双方を持ち、
自分がより偉大になるために、
麻原を含めた絶対的に見える他者に、安直に「依存」する、 という傾向を持ち、
その中で、教祖と同じように「被害妄想・誇大妄想」 を発展させていった、
ということになると思います。
まず、オウム真理教の出家者を見てきて、
大まかに3つのグループに分けられると思います。( 世間でも同じと思われます)
エリートといわれる人たち
一つは、いわゆる「エリート」と言われる人たちです。
しかし、いくらエリートといえども、
絶対的に、自分が他より優越しているということはあり得ず、
「劣等感と優越感」は背中合わせに持っていたでしょう。
「卑屈・被害妄想」と「誇大妄想」も持っていたと思われますが、
どちらかというと、誇大妄想優位であり、
「他より抜きん出よう」という意識が強いと思われます。
社会の中では、生きづらい人たち
次は、社会の中では、なかなか生きづらいという人たちです。
社会性が乏しく、不器用なるがゆえに生きづらさを感じていたり、
実際にちょっと蔑んで見られ、「劣等感」を持っていた人たち。
このタイプの人たちは、「卑屈・被害妄想」優位ですが、
そうであるがゆえに、逆にそれを補償するものとして、
隠れた「誇大妄想」も持っています。
平均的な人たち
三つめは、平均的な人たち。
この人たちは、「自分より上」と思う人に対する劣等感と、
下に対する優越感を持っています。
この人たちは、「卑屈・被害妄想」と「誇大妄想」を、
ほぼ均等に持っていると思われます。
自己愛が強い人ほど、
「特別な存在でありたい」「特別な存在である」 という思いが強い。
その思いが強いと、 それと違う現実によって生じる劣等意識も強くなります。
劣等意識と優越意識は、被害妄想 と誇大妄想を生み出します。
劣等意識によって卑屈になり、
卑屈になると「被害妄想・被害者意識」が生まれます。
一方、優越意識は、自己を誇大視し「誇大妄想」を生み出します。
こういった「自己愛型社会」に生きる、 自己愛の強い信者の心理的な傾向は、
麻原の「誇大妄想・被害妄想」 と共鳴したのではないかと思います。
信者が麻原に優越感情を刺激されたところとしては、
「選ばれた魂」であると規定されたことです。
そのように規定されることで、自分が「特別な存在」になれ、
優越感が満たされたのです。
そして、それを確たるものにするために、
グルは「絶対的偉大な存在」である、
「キリスト」である、
ということを受け入れたのです。
その部分を受け入れるということは、
「キリスト」 であることによって形作っていった麻原自身の妄想世界に、
同調していくことは当然であったように思います。
自分はキリストの選ばれた弟子という思い。
救世主の団体。
世界を救済する団体の一員という「優越感」と「自己愛」です。
また、「変身願望」 というものも多くの弟子はもっていたように思います。
「誇大自己」の人たちは、
今の自分は本当の自分ではない、
「仮の姿」にすぎないと思う傾向があります。
そして、それに対して現実の中で、 現実的に自己を改善するのでなく、
キリストの選ばれた弟子になることで、
「世界を救済する戦士」に生まれ変わって、
これこそ自分の本当の姿であると、
それまでの卑屈な自分から「変身」してしまったのです。
安易で安直な方法で、優越感情に浸れたわけです。
「自己愛人間」は、現実でなく、「妄想」 の中での自分を生きる傾向があります。
このような傾向のある者たちが、「自己愛」を満足させてくれる「 妄想」を
与えてくれる麻原に好感を持たないはずがありません。
ですから、麻原の「キリスト(救世主)」という妄想を
積極的に肯定することになったのです。
また、「そうあってほしい」という願望も麻原に「投影」され、
ますます麻原の「絶対化」は進んだと思います。
麻原の絶対化・神格化が進めば進むほど、
自分は「偉大なキリストの弟子」という自己愛を満たす
ご馳走を食べることができるわけです。
表層意識では、純粋な気持ちで麻原を「キリスト」と認めている
と本人たちは思っていたと思います。
しかし、潜在意識では、
このように自己利益のために麻原を「キリスト」であると、
積極的に受け入れていった(面もある)と思います。
今までは自己愛を満たすために
「キリストとしての麻原」に「依存」していましたが、
もう一つ違う「依存」もありました。
麻原は、非常に明確に、断定的に価値観を示し、
問題の解決の答えを示す傾向がありました。
不安定な、不確実な時代の中で、
「確実なもの」「絶対的な価値観」「指針」 を求めていた多くの人にとって、
頼もしい「依存」できる対象だったのです。
生きていく中で、なかなか割り切れず解決がつかないものに、
全部説明をつけてくれたのです。
「これですべてわかった!」というわけです。
これは、すっきりして非常に心地いいものです。
しかし、実際には、 はっきりすっきりわかるものではありませんが、
若いときは、早急に答えを欲する傾向が誰しもにあり、
若い弟子たちにとっては、
やはり、この点でも惹きつけられるものがあったのだと思います。
こういう「依存」です。
自分で苦しんで悩んで経験して答えを出すのではなく、
依存して答えを与えてもらって解決するというものです。
それによって弟子たちは、 自分で思考することがなくなっていきました。
このように、自分にいくつもの心地よさを与えてくれる「絶対者」 の指示には、
喜んで従うようになり、 麻原の妄想世界をともに築いていったのです。
前回に続き、オウム真理教の弟子たち・信者の人格分析の②
「自己愛型社会」という視点から分析していきたいと思います。
日本において、明確に「自己愛型社会」
1980年代です。
自己愛型社会のキーワードをいくつか挙げれば、
「誇大自己」
「自己存在意義への欲求」
「劣等感と優越感」
「依存」
「被害妄想と誇大妄想」。
他には、
「自己特別視」
「責任転嫁」
「自己正当化」
「現実回避」
「自己愛的空想」もあるかと思います。
80年代に思春期を送っていた弟子たちの多くも当然、
上記の要素は多分に持っていたと思われます。
それを弟子たちに当てはめれば、
誰もが持っている「自己存在意義」「特別な存在であること」
への追求を背景として、
自分と他人を比較して、「劣等感と優越感」の双方を持ち、
自分がより偉大になるために、
麻原を含めた絶対的に見える他者に、安直に「依存」する、
その中で、教祖と同じように「被害妄想・誇大妄想」
ということになると思います。
まず、オウム真理教の出家者を見てきて、
大まかに3つのグループに分けられると思います。(

一つは、いわゆる「エリート」と言われる人たちです。
しかし、いくらエリートといえども、
絶対的に、自分が他より優越しているということはあり得ず、
「劣等感と優越感」は背中合わせに持っていたでしょう。
「卑屈・被害妄想」と「誇大妄想」も持っていたと思われますが、
どちらかというと、誇大妄想優位であり、
「他より抜きん出よう」という意識が強いと思われます。

次は、社会の中では、なかなか生きづらいという人たちです。
社会性が乏しく、不器用なるがゆえに生きづらさを感じていたり、
実際にちょっと蔑んで見られ、「劣等感」を持っていた人たち。
このタイプの人たちは、「卑屈・被害妄想」優位ですが、
そうであるがゆえに、逆にそれを補償するものとして、
隠れた「誇大妄想」も持っています。

三つめは、平均的な人たち。
この人たちは、「自分より上」と思う人に対する劣等感と、
下に対する優越感を持っています。
この人たちは、「卑屈・被害妄想」と「誇大妄想」を、
ほぼ均等に持っていると思われます。
自己愛が強い人ほど、
「特別な存在でありたい」「特別な存在である」
その思いが強いと、
劣等意識と優越意識は、被害妄想 と誇大妄想を生み出します。
劣等意識によって卑屈になり、
卑屈になると「被害妄想・被害者意識」が生まれます。
一方、優越意識は、自己を誇大視し「誇大妄想」を生み出します。
こういった「自己愛型社会」に生きる、
麻原の「誇大妄想・被害妄想」
信者が麻原に優越感情を刺激されたところとしては、
「選ばれた魂」であると規定されたことです。
そのように規定されることで、自分が「特別な存在」になれ、
優越感が満たされたのです。
そして、それを確たるものにするために、
グルは「絶対的偉大な存在」である、
「キリスト」である、
ということを受け入れたのです。
その部分を受け入れるということは、
「キリスト」
同調していくことは当然であったように思います。
自分はキリストの選ばれた弟子という思い。
救世主の団体。
世界を救済する団体の一員という「優越感」と「自己愛」です。
また、「変身願望」
「誇大自己」の人たちは、
今の自分は本当の自分ではない、
「仮の姿」にすぎないと思う傾向があります。
そして、それに対して現実の中で、
キリストの選ばれた弟子になることで、
「世界を救済する戦士」に生まれ変わって、
これこそ自分の本当の姿であると、
それまでの卑屈な自分から「変身」してしまったのです。
安易で安直な方法で、優越感情に浸れたわけです。
「自己愛人間」は、現実でなく、「妄想」
このような傾向のある者たちが、「自己愛」を満足させてくれる「
与えてくれる麻原に好感を持たないはずがありません。
ですから、麻原の「キリスト(救世主)」という妄想を
積極的に肯定することになったのです。
また、「そうあってほしい」という願望も麻原に「投影」され、
ますます麻原の「絶対化」は進んだと思います。
麻原の絶対化・神格化が進めば進むほど、
自分は「偉大なキリストの弟子」という自己愛を満たす
ご馳走を食べることができるわけです。
表層意識では、純粋な気持ちで麻原を「キリスト」と認めている
と本人たちは思っていたと思います。
しかし、潜在意識では、
このように自己利益のために麻原を「キリスト」であると、
積極的に受け入れていった(面もある)と思います。
今までは自己愛を満たすために
「キリストとしての麻原」に「依存」していましたが、
もう一つ違う「依存」もありました。
麻原は、非常に明確に、断定的に価値観を示し、
問題の解決の答えを示す傾向がありました。
不安定な、不確実な時代の中で、
「確実なもの」「絶対的な価値観」「指針」
頼もしい「依存」できる対象だったのです。
生きていく中で、なかなか割り切れず解決がつかないものに、
全部説明をつけてくれたのです。
「これですべてわかった!」というわけです。
これは、すっきりして非常に心地いいものです。
しかし、実際には、
若いときは、早急に答えを欲する傾向が誰しもにあり、
若い弟子たちにとっては、
やはり、この点でも惹きつけられるものがあったのだと思います。
こういう「依存」です。
自分で苦しんで悩んで経験して答えを出すのではなく、
依存して答えを与えてもらって解決するというものです。
それによって弟子たちは、
このように、自分にいくつもの心地よさを与えてくれる「絶対者」
喜んで従うようになり、
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