麻原三女『止まった時計』の虚偽② 2000年~裏から教団に関与

 少し間が空いてしまいましたが、麻原三女・松本麗華氏著『止まった時計』における虚偽の内容について、前回の記事「麻原三女『止まった時計』の虚偽① 99年まで」」の続きです。

② 2000年~ 教団を脱会しながら、裏から教団に関与

 2000年になって、受刑を終えた上祐が教団に復帰しました。その後まもなく、三女や次女は、自らの刑事事件で逮捕された結果、「オウム真理教」から「アレフ」と改名した教団の入会手続きは取らず、教団施設に出入りすることはなくなりました。

  しかし、その後も、当時の上祐らが依然として麻原に帰依をしており、既にご紹介したオウムの教義や麻原の獄中からの指示を守らなければならないために、日 常の実務の運営は別として、宗教的に重要な事柄に関しては、以前と変わることはなく、上祐らの教団内の幹部が、教団外に住む三女を中心とした家族の合意を 得る形で継続しました。

 にもかかわらず、三女の著作は、全体的に、三女は「アレフ教団運営に関わっていず、上祐や母(麻原の妻・松本明香里氏)に利用された」としていたり、「上祐とのやり取りは、個人的な友人関係によるものだ」としていますが、それは全く事実に反しています。
 これらのやり取りは、三女も熟知している「麻原の家族を全ての信者の上に置く」とした麻原・オウムの教義や、麻原の獄中の指示に従った教団運営の原則であり、上祐らの義務だったのです。

 以下に、三女の著作の記載の中で、具体的に事実に反する記載の事例を挙げて説明します。

◆『止まった時計』上祐さんの復帰 p157

 1999年12月29日、広島刑務所を出所した上祐さんが、教団に戻ってきました。出所後、上祐さんは、横浜道場にわたしを何度も呼び出しました。
「と くに印象に残っているのは、サマナをたくさん集めた中、「アーチャリー、ちょっとおいで」と、隣に呼び寄せたかと思うと、突然わたしの手を自分の手ととも に高くあげ、「二人の正大師は、今後争うことはないことをここに誓う。これからは仲良く力を合わせていく」という旨の声明を発したときのことです。上祐さ んはなぜこんなパフォーマンスをするのかと、釈然としない気持ちのまま座っていました。



 まず、当時の上祐が、三女を「アーチャリー」と呼び捨てにすることは決してあり得ませんでした。どんな信者も、そんな呼び方をすることを、決して聞いていません。
  当時の上祐は、まだ麻原の帰依から脱却しておらず、信者も麻原に帰依していましたから、仮に呼び捨てなどにすれば、「皆が驚愕する事態」を招きます。先ほ ど述べたように、アレフ・オウム真理教の教団内は、麻原の定めたステージ制度という位階制度の中にあり、麻原が、「子供たちを、すべての弟子の上に置く」 と定め、従う体制にありました。よって、上祐は常に「アーチャリー正大師」と呼ぶ以外にはありませんでした。

 次に、他の上祐の発言や行動も、三女が記載した通りではありませんが、二人の正大師が信者の前で仲の良い所を見せたという事実は、一度ほどあったと思います。しかし、それは、上祐の記憶では、実際には三女の方が(少なくとも三女も)提案したことでした。
 というのは、仲が良い様子を見せる重要性は、上祐が戻る前の教団の運営の混乱に自らの責任がある三女の方が、痛感していたことだからです。

 上祐が戻る前の教団の上層部は、麻原の家族(三女と二女、長女)の間での対立により分裂し、さらに、家族と、教団幹部の「正悟師」の間の分裂で、意思決定機能が麻痺するほどの状況にあり、当時数百人いた教団の内部は大変な混乱状態にあったからです。
 そして、この対立の延長上で、上祐が復帰した後まもなく、いわゆる「旭村事件」が発生し、三女が長女と激しく対立し、長女と長男の住む住居に三女・次女らが信者と共に、不法侵入して逮捕されたという事実がありました。

◆『止まった時計』上祐さんの復帰 p157

「いつの間にか、長老会議は消滅し、上祐さんの出所後、一週間もたたずに、上祐さんが、教団運営を取り仕切るようになりました。」



 まず、ここでの「長老会議」とは、前に述べたように、麻原が不在の状態において、麻原が「獄中メッセージ」で指示した、オウム真理教教団の意思決定機関であり、麻原の家族と高弟で構成される会合のことであり、そのリーダー(座長)は、三女が任命されていました。

  次に、「いつの間にか、長老会議は消滅し、上祐さんの出所後、一週間もたたずに、上祐さんが、教団運営を取り仕切るようになりました。」というのは明らか に事実に反しています。その当時は、上祐と他の最高幹部(正悟師)と三女・次女が、密かに、上祐が滞在する横浜支部に集まって会合を開いていました。
 出所直後の上祐がマスコミに囲まれて身動きが取れないためでした。よって、一週間もたたずに、上祐が教団運営を取り仕切ったことはありません。

 ただし、「長老会議が消滅した」かのような状態は、その後まもなく訪れました。
 それは、

 ① 三女・次女が、上記の旭村事件で逮捕・拘留され、拘留を逃れるためにも、以前のように公には教団に関与しにくくなったこと(結果として、当時、発足したてのアレフには入会しなかった)、
 ② 長女も別件で逮捕されると共に、健康問題で教団に関与できなくなったこと

などが原因です。
 すなわち、上祐が出所したからではなく、家族の方が違法行為によって、自ら崩壊していったのです。

 しかしながら、その後も、「高弟と家族で話し合って決める」という獄中の麻原が「獄中メッセージ」で指示した体制は、麻原・オウムの教義において家族の了解が必要な重要な案件に関しては、維持されました。
 具体的には、教団の中の家族以外の上層部をまとめる立場の上祐と、教団を、形の上では出ざるを得なくなった家族の筆頭である三女が、密かに連絡を取ることによってです。こうしなければ、「麻原への帰依」に反することになるからでした。

◆『止まった時計』上祐さんの復帰 p157

「16歳のわたしは、「これで果たせもしない責任から解放される」とほっとしていました。これからは、心配だった教団やサマナのことは上祐さんにすべてまかせたらいい。」



  これが本当ならば、この3年後の2003年から、三女が先頭に立ち、上祐が勧める教団改革を止めるためにアレフ教団に深く関与して、上祐をアレフ教団の運 営から外す指示を出し、上祐が運営から外れることはなかったはずです。この事実は、すでに、野田成人氏、村岡達子氏、麻原四女など、その他大勢の人々が証 言しています。

◆『止まった時計』 シガチョフ事件 p187

「わたしは教団を離れた後も、教団の運営には関わらないものの、個人的な友人関係は大切にしたいと考えていました。そのため高校に通い始めてからも、上祐さんとは、ときどき電話で話をしていました。」



  これは、個人的な友人関係のものからではなく、「麻原の家族の了解が必要なこと」に関して、当時の家族の筆頭格である三女と、どうしても連絡を取る必要が あったというのが事実です。上祐が個人的に三女に関心があるかのような印象を与える記載は、三女の主観によるものです。

◆『止まった時計』 シガチョフ事件 p188

  あるとき、教団にいる友人から、上祐さんがわたしの名前を使い、「アーチャリーが賛成している」と言って、教団運営をしているという話を聞きました。内容 も寝耳に水だったたえ、上祐さんに、「わたしの名を使うのはやめてください。教団運営に関わるつもりはないと何度もお伝えしているはず。そんなことをする なら、もう電話でお話できません」
と言うと、彼は、「誰がそんなことを言ったんだ。そ
んなことはしていないが、わかった。アーチャリーの名前は、 今後も使わない」と約束してくれました。上祐さん以外との連絡がほとんど絶たれている状態だったわたしは、彼の言葉を信じ、約束が守られているかどうか は、確かめませんでした。」


 この部分についても、上記のとおり、教団運営で重要なことは、家族の了解が必要 なために、上祐が三女と連絡を取っていたのが事実です。そのため、今の時点では記憶が定かではありませんが、上祐が、教団内部の幹部に、三女ら家族の了解 があるかを尋ねられたことは、多くはありませんが、時々はあったはずです。
 よって、この三女の記載は、「三女の了解があったという事実を、他の信者には隠してほしい」という彼女の要望があったというだけの話であって、了解の事実が存在しないのに、上祐がその名前を使ったということでは決してありません。

◆『止まった時計』シガチョフ事件 p189

 上祐さんとの電話の内容ではきり覚えていることが二つあります。一つは、ロシア支部のサマナであるシガチョフさんについて、
「ロシアのシガチョフが、日本で尊師の奪還を目的に、テロを起こすかも知れない。シガチョフはアーチャリーの話だったら聞く、と言っている、何とかしてくれないか」
 という連絡でした。
  それを聞いて、わたしは、シガチョフさんとの面識はないし、教団との関係もないのにと困惑しました。それでも、その人が事件を起こしてしまって、本人を含 め、多くの人が苦しむのを見たくないと思いました。(中略)結局、計画の中止を呼びかけるビデオ撮影に応じることにしました。



 この話は、その前提が全く間違っています。

  上祐が、自著である『オウム事件17年目の告白』(p187)に掲載していますが、シガチョフによる父親である麻原の奪還計画について、日本人の麻原のあ る高弟を通して聞いた三女が「なんと帰依の深い弟子がいるのか」と称賛し、それがシガチョフに伝わったという事実があったのです。
 これは、上祐が、三女に直接確認しています。そのために、上祐は、三女に、前言を否定・撤回させる必要が生じたので、それを依頼したのでした。

  そうした事情がなければ、三女のビデオメッセージを、シガチョフに送る必然性は全くありませんでした。仮に、麻原の家族という権威を使いたいということで あれば、麻原によって三女よりも上に位置づけられていた、四女や長男・次男の方に依頼する方がより有効だったと思われます。

 こうして、この部分の三女の記載は、自分の奪還計画に対する間違った行動を(思い出すのが嫌なうちに)全く忘れてしまったのか、それともそれを覆い隠すために作られた重大な虚偽であると思います。

◆『止まった時計』シガチョフ事件 p189

  上祐さんの電話で、はっきり覚えているもう一つの話は、弟たちを教祖としてアレフに戻したい、と言われたことです。この話にわたしは仰天し、怒りました。 上祐さんは、「猊下(弟たちのこと)を信仰の対象に戻すだけだから、猊下方はアレフ内に入らないでいいし、アーチャリーも関わらないでいい」「あとは任せ てくれたらいい」と言いました。
 アレフに入会せず、社会で生きていこうと苦労しているわたしたちを、上祐さんはどのように考えていたのでしょう か。まるで、アレフ内の人事異動のように、当然のように上祐さんは言いました。わたしは怒りを抑えながら、「もう弟たちはアレフに属していないし、普通に 育ってくれたら良いと思っている。いい加減にして下さい!」と伝えました。



 こうした事実は、全くありません。そもそも、長男・次男は、麻原・オウムの教義では、「リンポチェ猊下」の称号と共に、家族を含めた全ての弟子の上に位置づけられており、「麻原の獄中メッセージ」では、長男・次男が後継「教祖」に任命されています。

 よって、この当時、麻原に依然として帰依している状態にあった上祐が、長男・次男を教団に戻すとか、戻さないといったことを自分で決める権限は到底ありえず、そのようの発言をすることもあり得ません。

  なお、「長男・次男を教祖とするように」という麻原の獄中メッセージの内容を実行し、信者たちに指示したのは、ほかでもない三女自身でした。97年に、三 女は、集まれる信者たちを集め、長男・次男を連れて、信者たちの目前で、これからは弟たちが教祖となること、「猊下」と呼ぶようにということ、麻原を開祖 とするように、という指示を出しました。

 実際には、三女自身が、上祐に対して、「10年は、あなた(=上祐)が教団を主導する時代よね」という主旨のことを言ったことがあります。これを言い換えるならば、長男・次男が成人するまでということです。
 また、麻原の妻が、三女と共に、上祐の教団改革にストップをかけてきた時は、三女が同席する中で、妻が「あなた(上祐)は教団を預かっている立場であることを忘れないように」などと言って、いずれ長男・次男ら家族が教団を主導することを示唆していました。

 こうして、麻原の家族が、麻原色を薄めようとした上祐らの教団改革を止めようとした動機としては、家族の元に教団を維持したいという一面があったと思われます。その動機は、三女より、麻原の妻が一番強いように思われましたが、その家族の動きに三女も同調していました。

 以上のことから、ここで三女が書いているように、上祐が、長男次男の復帰の話をいきなりしたので強い憤りを覚えたという状況は、あったはずがないのです。
  実際に、当時の上祐が持っていた考えとしては、①当面は、長男・次男が教団に復帰することは社会環境からして難しいが、②本人が希望する限りは、永久に復 帰しないことも考えられないため、③復帰の時期・形をよく考えつつ、まずは事件を反省・謝罪して賠償を行ったり、麻原色を薄める教団改革が必要である、と いったものでした。

 では、なぜ、三女は、こうした話をするのでしょうか?
  そのカギは、実際に10年以上たった、最近のアレフの状態に関係すると思われます。

 というのは、2015年の現在、麻原の妻(三女の母)や、最高幹部である二ノ宮らが主導するアレフの主流派は、この麻原の獄中メッセージによる指示に従って、教団に戻る気持ちがある次男を、教団に戻そうとしていると言われています。

 一方、三女・次女・長男は、次男の教団復帰に反対であり、長男は自らの教団復帰を否定しています。そのため、この両グループの間で、すなわち、家族の間で、教団が分裂し始めており、主流派が、三女派の信者多数を除名しているとされています。
 麻原の妻・二ノ宮からすれば、三女の、麻原が後継教祖とした長男・次男の教団復帰を認めないという考えは、麻原への帰依に反することであると、三女を批判しているようです。

  一方、三女の考えに共鳴する信者は、麻原の長男・次男の後継教祖の指名は、1996年に破防法が適用される可能性があった際に、それを回避するための方便 として、麻原が教祖を降りた際のものであって、破防法適用が回避された今の時点では当てはまらないことだと主張しています。
 この背景には、要するに、「グルは尊師(麻原)だけ」という考え方です。長男次男=猊下よりも、麻原に、永久の教祖・グルを求める心情の強い人たちです。

 しかし、重要なことは、これは現在のことであり、上記2000年の当時は、三女を含めた家族には、永久に長男・次男が、永久に教団に復帰しないという考えはなかったことは、既に述べた通りです。
 ところが、現在の三女は、次男の復帰のために、母親たちと激しく対立する中で、以前は復帰することを考えていたということさえも、認められない状況なのかもしれません。

 こうして、この部分の三女の虚偽の記載は、
 ①上祐の教団改革を止めたのは、家族の復帰のためではないという予防線を張りながら、②上祐がアレフ時代に、麻原色=麻原家族色を薄めようとした事実を活用し、自分は以前から長男・次男の復帰に強く反対してきた、と主張したいのかもしれません。


◆『止まった時計』 シガチョフ事件 p190

 高校1,2年(2001年~2002年)のころ、ある日、接見禁止が解かれた人と接見しに、東京拘置所に行った帰り道、ひどい剣幕の上祐さんから電話がかかってきました。
「なんで勝手に接見に行った!」「アレフの人間には、接見を禁じているのに、アーチャリーたちが接見をしていると、首尾一貫しなくなるだろう!」
と怒鳴り続けました。わたしはアレフの人間ではないのに、どうしてアレフの決まりを守らないといけないのか、理解できませんでした。
・・・ 上祐さんだけでなく、教団全体が、「松本家は、対外的な問題のために、関わらないふりをしているだけで、本当は教団の構成員」だと思っていた節がありま す。しかし、わたしたちは、実際に教団を離れた折、アレフに入会もせず、支援も受けず、社会の中で、自分の意志をもって生きていました。




 この記載の通りの事実はありません。
 繰り返しになりますが、当時の上祐が、三女に対して、こうした「上から目線」で対応することは、オウム教義上できません。

 確たる事実としては、①上祐がいた際のアレフは、教団内の信者に関しては、社会的な問題が起きないように、事件を反省していない拘留者と接見は自粛していたこと、②三女は、死刑囚を含め、多くの拘留中の元幹部と接見を繰り返したことです。
 その一方、上祐と三女の間で意見の違いが表面化して、上祐が三女に面会の自粛を(怒鳴って命じたのではなく)お願いしたことがあったかは、今となっては定かな記憶がありません。

 しかし、今年の3月の読売新聞は、三女が、裁判では麻原を厳しく批判しているはずの元オウム幹部の林泰男死刑囚が、三女との手紙のやり取りをし、その中で、三女に対して、麻原の延命のために、再審請求をするように促しているという報道をしました。
 三女は、この記事は、自分が麻原の延命活動をしていると主張するものだとして、それを不服として、訴訟を提起したようです。そして、読売の記事の正当性はともかく、上祐の接見自粛は、こうした社会的な批判を招くことを避けるものであり、適切なものだと考えられます。

次回は、以下の内容となります。


>>③ 2003年の「上祐外し」に中心的関与

④ 2005年・06年の「正悟師外し」への関与

⑤ 補足:2014年前後からの教団への関与

⑥ まとめ:三女が虚偽を述べる理由、疑い、問題、評価ほか



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