麻原三女『止まった時計』の虚偽① 99年まで
(※記事をこちらのURLに移行しました 2015/06/19)
(2015年05月12日http://hikarinowa.net/kyokun/newsblog/1999/99-1.htmlの記事)
『止まった時計』(講談社)においては、残念ながら、事件後のオウム真理教や、その後継団体のアレフにまつわる出来事に関して、多数の虚偽の内容が含まれていました。
この件は、報道機関からも、私たちに問い合わせがあり、その一部はすでに報道されました(「週刊新潮」5月7日・14日号、p43)。
ただし、報道されていない部分もありますので、以下にお伝えします。
まず、麻原三女である松本麗華氏の、時代ごとにおける基本的な位置づけについてです。
① 長男・次男が生まれる前まで
三女は、麻原に長男・次男が生まれる前までは、「麻原の後継者」とされ、麻原の指示で、上祐を含む「全ての弟子の上」に位置づけられた麻原の子供(「皇子」)の一人です。
② 95年以降の麻原の不在の教団
95年以降の麻原の不在の教団でも、麻原の獄中の指示に従って、その集団指導体制「長老部」の中心人物(座長)に指名され、教祖後継者とされた長男・次男がいまだ幼少であるために、教団の事実上の「最高権力者」の立場にありました。
そして、「子供だから何もわからなかった」とした三女の著作の主張とは異なって、三女自らも、その麻原の指示通りに、強力な指導者としてふるまった確たる事実があり、私たち当時の多くの信者たちは、それを繰り返し、実体験しています。
その「麻原の獄中メッセージ」を見れば、三女が、上祐よりも上の立場であることが、明々白々となります(詳しくは後述)
③ 2000年
この(2)の事実は、2000年になって、受刑を終えた上祐が教団に復帰し、三女が、教団を形の上は去った後も続きました。
日常の実務の運営は別として、教団の宗教的に重要な事柄に関しては、当時の上祐らが依然として麻原に帰依をしており、麻原の指示を守る必要がある以上は、変わることはなく、上祐らの教団内の幹部が、三女の合意を得る形で継続しました。
これは、三女が著作で主張するような、上祐との個人的な友人関係ではなく、「麻原の獄中の指示」を反映した、教団運営の原則であり、上祐の義務だったのです。
実際に、2003年以降、三女ら家族が、社会融和路線を進める上祐を教団運営から外し、さらには、野田・村岡といった幹部も教団運営から外していく結果となりましたが、これは、三女ら家族が、上祐らよりも上の立場にあったことを明白な証拠です。
私たち当時の多くの信者たちも、それを実体験しています (詳しくは後述)。
④ 2014年頃
ただし、遅くとも昨年2014年ごろから、三女が事実上の最高権力者という状況に変化があったことは事実です。
(変化の開始の時期は正確にはわかりません)。
それは、長男・次男がいよいよ成人し、そのうちの次男が教団に戻る意思があるとされているからです。
そのため、三女が教団全体を仕切ることができない状況が形成され、今のアレフは、三女や長男の考えに賛成する者と、次男や麻原の妻の考えに賛成するものとの間で分裂状態にあるとされています。
よって、三女の著作の主張とは異なって、
①三女が、長らく事実上の最高権力者であった事実は、ゆるぎないものであり、
②今後は、三女は、アレフ全体はコントロールすることはできないと思われるものの、三女・長男の考えを支持する者には、従来同様の影響力を有し続ける可能性があります。(詳しくは後述)。
③ただし、上記の事実が、公安調査庁が、三女を、教団の役職員と認定したことまで正当化するかは疑問で、2000年以降の、三女の教団の外からの関与は 定期的ではなく、オウムの教義で、麻原の家族の同意・意見が必要な場合や、教団の主導者等に関して、三女らが関与したい時に限られていたと思われます。
なお、「麻原の獄中メッセージ」は、本年3月に、大々的にテレビ東京が、番組内で取り上げられており、当局も把握しており、後にご紹介します。
以下に、その事実を、証拠をもって記します。
【1】麻原の「獄中メッセージ」(95年・96年)
以下が、95年、96年頃の、麻原の「獄中メッセージ」の該当箇所で、
・麻原に替わる教祖を、麻原の長男・次男とすること
・教団運営体制を「長老部」とし、その長を、三女とすること
などが記されています。
※なお、以下の内容は、正真正銘の麻原の獄中メッセージであることは、すでに獄中メッセージの件を報道したテレビ東京のスタッフが、その独自のルートで入 手したものと同じであることを確認するなどして、確かめています。なお、一部個人情報はプライバシーの関係上、●●で削除しています。
さらに、以下の「獄中メッセージ」を見ると、麻原が、当時社会融和路線(ソフト路線)を取ろうとした上祐の方針・権限を否定し、三女らを上祐らの上においていることがよくわかります。
さらに、三女の著作の主張とは異なって、この獄中メッセージでの指示に基づいて、三女は、教団の運営のために、獄中の麻原とのやりとりをしています。
以下は、その具体的な事例です(なお、三女の著作の中にも、三女の宗教名が、「山の娘」であると記されています)。
上記のように、三女は、麻原不在の教団運営において、上祐ら幹部たちよりも上の権限・権威を持ち、そのようにふるまっていました。
しかし、『止まった時計』「第三章 事件と父の逮捕」、「第四章 唯一の正大師となって」の中の記載は、上記の前提が抜けた状態での記載となっていました。
【2】観念崩壊セミナー(96年)
特に、p119の96年中頃に行われた「観念崩壊セミナー」においては、昨日発売された「週刊新潮」に、当時を経験した宗形のコメントが掲載されているように、三女の、監修・指示のもとで行われていたものです。
以下は、経験者の証言です。
以上が、96年頃までの状況です。
次回は、以下の事実について掲載します。
>>② 2000年~裏から教団に関与
⑤ 補足:2014年前後からの教団への関与
(2015年05月12日http://hikarinowa.net/kyokun/newsblog/1999/99-1.htmlの記事)
『止まった時計』(講談社)においては、残念ながら、事件後のオウム真理教や、その後継団体のアレフにまつわる出来事に関して、多数の虚偽の内容が含まれていました。
この件は、報道機関からも、私たちに問い合わせがあり、その一部はすでに報道されました(「週刊新潮」5月7日・14日号、p43)。
ただし、報道されていない部分もありますので、以下にお伝えします。
まず、麻原三女である松本麗華氏の、時代ごとにおける基本的な位置づけについてです。
① 長男・次男が生まれる前まで
三女は、麻原に長男・次男が生まれる前までは、「麻原の後継者」とされ、麻原の指示で、上祐を含む「全ての弟子の上」に位置づけられた麻原の子供(「皇子」)の一人です。
② 95年以降の麻原の不在の教団
95年以降の麻原の不在の教団でも、麻原の獄中の指示に従って、その集団指導体制「長老部」の中心人物(座長)に指名され、教祖後継者とされた長男・次男がいまだ幼少であるために、教団の事実上の「最高権力者」の立場にありました。
そして、「子供だから何もわからなかった」とした三女の著作の主張とは異なって、三女自らも、その麻原の指示通りに、強力な指導者としてふるまった確たる事実があり、私たち当時の多くの信者たちは、それを繰り返し、実体験しています。
その「麻原の獄中メッセージ」を見れば、三女が、上祐よりも上の立場であることが、明々白々となります(詳しくは後述)
③ 2000年
この(2)の事実は、2000年になって、受刑を終えた上祐が教団に復帰し、三女が、教団を形の上は去った後も続きました。
日常の実務の運営は別として、教団の宗教的に重要な事柄に関しては、当時の上祐らが依然として麻原に帰依をしており、麻原の指示を守る必要がある以上は、変わることはなく、上祐らの教団内の幹部が、三女の合意を得る形で継続しました。
これは、三女が著作で主張するような、上祐との個人的な友人関係ではなく、「麻原の獄中の指示」を反映した、教団運営の原則であり、上祐の義務だったのです。
実際に、2003年以降、三女ら家族が、社会融和路線を進める上祐を教団運営から外し、さらには、野田・村岡といった幹部も教団運営から外していく結果となりましたが、これは、三女ら家族が、上祐らよりも上の立場にあったことを明白な証拠です。
私たち当時の多くの信者たちも、それを実体験しています (詳しくは後述)。
④ 2014年頃
ただし、遅くとも昨年2014年ごろから、三女が事実上の最高権力者という状況に変化があったことは事実です。
(変化の開始の時期は正確にはわかりません)。
それは、長男・次男がいよいよ成人し、そのうちの次男が教団に戻る意思があるとされているからです。
そのため、三女が教団全体を仕切ることができない状況が形成され、今のアレフは、三女や長男の考えに賛成する者と、次男や麻原の妻の考えに賛成するものとの間で分裂状態にあるとされています。
よって、三女の著作の主張とは異なって、
①三女が、長らく事実上の最高権力者であった事実は、ゆるぎないものであり、
②今後は、三女は、アレフ全体はコントロールすることはできないと思われるものの、三女・長男の考えを支持する者には、従来同様の影響力を有し続ける可能性があります。(詳しくは後述)。
③ただし、上記の事実が、公安調査庁が、三女を、教団の役職員と認定したことまで正当化するかは疑問で、2000年以降の、三女の教団の外からの関与は 定期的ではなく、オウムの教義で、麻原の家族の同意・意見が必要な場合や、教団の主導者等に関して、三女らが関与したい時に限られていたと思われます。
なお、「麻原の獄中メッセージ」は、本年3月に、大々的にテレビ東京が、番組内で取り上げられており、当局も把握しており、後にご紹介します。
以下に、その事実を、証拠をもって記します。
【1】麻原の「獄中メッセージ」(95年・96年)
以下が、95年、96年頃の、麻原の「獄中メッセージ」の該当箇所で、
・麻原に替わる教祖を、麻原の長男・次男とすること
・教団運営体制を「長老部」とし、その長を、三女とすること
などが記されています。
※なお、以下の内容は、正真正銘の麻原の獄中メッセージであることは、すでに獄中メッセージの件を報道したテレビ東京のスタッフが、その独自のルートで入 手したものと同じであることを確認するなどして、確かめています。なお、一部個人情報はプライバシーの関係上、●●で削除しています。
96.6.5
・教祖――長男=鏡暉・リンポチェ猊下
次男=璽暉・リンポチェ猊下
カムトゥル・リンポチェ、自分の子供達もリンポチェである
チベット政府への配慮からパンチェン・ラマの名前は使わない
・教団運営
ドゥルガーから始まる子供達、正大師・正悟師をミックスして
長老部を設ける
全員が参加して教団運営に当たる
長老部から排斥する場合
・本人の意思による場合
・派閥争いを避けるため一人でも反対したら不可
だれかをやめさせる場合は全員一致で決定
座長――アーチャリー正大師
さらに、以下の「獄中メッセージ」を見ると、麻原が、当時社会融和路線(ソフト路線)を取ろうとした上祐の方針・権限を否定し、三女らを上祐らの上においていることがよくわかります。
各位 ●●弁護士経由のものをお送りします。
10/13
アーチャリー正大師を(→の)補佐を3人(アキテル、ギョッコウ、●●●)
(中略)
上祐の権限は消滅した
10/16
ジョウユウの方針はいかん。もっと強い態度で教団の運営管理にあたるべきである。
上九から引き上げるようなことは絶対にいけない
ソフト路線などは一切してはいけない
崩壊に追い込むために益々追い打ちをかけて攻撃してくる
自主解散はずっと後のオプションとしては考えてもよいが、すぐ発表すべきではない、
とジョウユウに伝えていたはず。
警察や公安への陳情など何の効果もない。
教団からジョウユウの色を消すように
さらに、三女の著作の主張とは異なって、この獄中メッセージでの指示に基づいて、三女は、教団の運営のために、獄中の麻原とのやりとりをしています。
以下は、その具体的な事例です(なお、三女の著作の中にも、三女の宗教名が、「山の娘」であると記されています)。
96.3.28
(中略)
●山の娘(三女):最近死ぬサマナが多いが、これは神々の意思でしょうか。
愛する娘へ(※麻原の三女への回答)
オウム真理教は、新しい時代へ一歩足を踏み入れたように思われます。そして、その過渡期において、エネルギーのひずみが完全に修復されていないのではない でしょうか。真に高い霊性を求める人たちの集いに確実に変容していますよね。この状態だと、一般の人が求めている宗教の最高のレベルのニーズについては、 あっというまに達成され、生きるカルマが切れて死んでいっているように思われます。したがって、生きる死ぬの両方についてこだわらず、淡々と限界の修行を 続ける、あるいは、個人の能力に応じて限界の修行をさせるだけで、あなたは立派な役割をしていることになると思われますので、しっかり頑張ってください ね。
●山の娘(三女):
●●●●●●●●●師が陽神で尊師に会いに行ったと言っているが、それは本当か。
(中略)
神の世界に入ることは素晴らしいことですが、神の世界は非常に広く、また低い世界から高い世界まであります。この期間中にはっきり私が認識できたのは、 ●●●●●●●●●だけでした。したがって、陽神が出たとするならば、何度でも再現が可能になるはずだし、その人が観想した神の形状は、意図した人の心へ 投影できるはずです。これをためさせてみてください。またこの時、クンバカは少なくとも5分以上になり、五大エレメントのコントロールその他も簡単にでき るはずですので、ためさせてください。
上記のように、三女は、麻原不在の教団運営において、上祐ら幹部たちよりも上の権限・権威を持ち、そのようにふるまっていました。
しかし、『止まった時計』「第三章 事件と父の逮捕」、「第四章 唯一の正大師となって」の中の記載は、上記の前提が抜けた状態での記載となっていました。
【2】観念崩壊セミナー(96年)
特に、p119の96年中頃に行われた「観念崩壊セミナー」においては、昨日発売された「週刊新潮」に、当時を経験した宗形のコメントが掲載されているように、三女の、監修・指示のもとで行われていたものです。
以下は、経験者の証言です。
●細川美香(ひかりの輪副代表)
私が参加した時、セミナーが進むなかで、三女が、「みんなのやる気が感じられない」ということで、そのときの参加者の人たちを一列に並べ、三女が、1人ず つ「やる気あるのか!」と聞きました。それに対して、参加者は「やる気あります」と答えたのですが、その返答を聞き、三女は参加者を二列に分け、一人一人 確認していきました。
そして、最後の1人まで、「やる気あるのか!」と、確認し終わった段階で、二つの列のうち、一つの列の人たちは「やる気が感じられない」ということで、三女が、彼らを、施設の外に出すように指示しました。
セミナーの際は、基本的に、修行監督はいましたが、監督は何をするにつけても、まずは三女に確認し、三女に確認した内容の指示が出されるという状況でした。
セミナーの最後に、セミナーの「卒業認定」というのがありましたが、それは、三女の目前で、「決意文」を、1人1人が読み上げ、「心がこもっている」と、 三女が感じれば「合格」で卒業でき、三女がOKしなければ、「不合格」で居残り組になりましたが、やはり最終的には三女が決定していました。
同じ回に参加した人たちの中には、教団の戒律を破った、ということで、長時間の極限的な「縛り蓮華座の修行」(両足を交差して、座る厳しい座法)を課せら ている人がいて、彼らは、痛みのあまり叫んでいました。後から、彼は、三女の精神的な追い込みへの負荷と、足を縛り続ける痛みの余り泣き叫んだ後、叫び声 がうるさいと、猿ぐつわをされて何かに縛り付けられ、そこで自殺を計り、気絶寸前で、三女から平手打ちでたたかれ、意識が戻ったということでした。
その人は、脱会して、自分のブログに、そのときのことを載せています。
「観念崩壊セミナーで、自殺を試みた 元P氏のブログ」
http://ameblo.jp/ommanipemehum/page-7.html
私が参加した時、セミナーが進むなかで、三女が、「みんなのやる気が感じられない」ということで、そのときの参加者の人たちを一列に並べ、三女が、1人ず つ「やる気あるのか!」と聞きました。それに対して、参加者は「やる気あります」と答えたのですが、その返答を聞き、三女は参加者を二列に分け、一人一人 確認していきました。
そして、最後の1人まで、「やる気あるのか!」と、確認し終わった段階で、二つの列のうち、一つの列の人たちは「やる気が感じられない」ということで、三女が、彼らを、施設の外に出すように指示しました。
セミナーの際は、基本的に、修行監督はいましたが、監督は何をするにつけても、まずは三女に確認し、三女に確認した内容の指示が出されるという状況でした。
セミナーの最後に、セミナーの「卒業認定」というのがありましたが、それは、三女の目前で、「決意文」を、1人1人が読み上げ、「心がこもっている」と、 三女が感じれば「合格」で卒業でき、三女がOKしなければ、「不合格」で居残り組になりましたが、やはり最終的には三女が決定していました。
同じ回に参加した人たちの中には、教団の戒律を破った、ということで、長時間の極限的な「縛り蓮華座の修行」(両足を交差して、座る厳しい座法)を課せら ている人がいて、彼らは、痛みのあまり叫んでいました。後から、彼は、三女の精神的な追い込みへの負荷と、足を縛り続ける痛みの余り泣き叫んだ後、叫び声 がうるさいと、猿ぐつわをされて何かに縛り付けられ、そこで自殺を計り、気絶寸前で、三女から平手打ちでたたかれ、意識が戻ったということでした。
その人は、脱会して、自分のブログに、そのときのことを載せています。
「観念崩壊セミナーで、自殺を試みた 元P氏のブログ」
http://ameblo.jp/ommanipemehum/page-7.html
●宗形真紀子総括文「麻原彰晃とわたしの魔境」より
はじまりは、ある意味子どもの思いつから始まったようなもので、三女の「大きな施設があるうちに、信者が都会で煩悩的になって修行できなくなる前にみんな を引き上る手助けをしたい」という思いに、一般の「自己啓発セミナー」の体験者の経験が合わさって、効果がありそうなのでと試しに企画されたセミナーでし た。
私が監督としてかかわった初期の頃は、「解脱のために観念を崩壊する」ということで、「まずは、監督自らがそのようにしなければならない」という三女の指示に基づき、皆の前で例えば次のようなことを行いました。
顔を醜く歪ませて、うめき声や叫び声を上げながら狂人として振舞ったり、当時は一見しとやかな女性に見えた私は、女を捨てる必要があると言われ、口汚い言葉で罵声を発し、ヤクザのような振る舞いをしたりしました。
三女の指示で、男性は、女装させられ、サティアンの前にいる警察官の前で踊らされたりしました。
最初はけが人などが出る内容ではありませんでしたが、参加した人の話を後から聞くと、どんどんエスカレートしていき、負傷者や、意識を失いかけ死にかける者などが出、その結果、脱会者も多数出るという悲惨な結果のものとなったのでした。
(中略)
例えば私も一緒になって行った「突っ込み」と呼ばれたものでは、数人で1人の人を取り囲み、罵声を浴びせ、対象となった人の弱点や問題点などのネガティブ な面を責め続け、本人の悪行についてすべて告白させ、本人が涙を流して懺悔するなど、三女が「いい」と、許可を出すまで続けるということを行いました。
大の大人の男性が涙を流すまでですから、かなり深層心理をえぐるような厳しい内容や、人格の尊厳を傷つける恥などについて責め続けていました。
ところが数日経ったとき、その矛先が今度は参加者でなく、監督の1人である私に向けられ、三女と他の監督たちから、罵声・軽蔑・無視されるなどのことが行 われ、三女から、「お前はどうしようもないヤツだ」と、監督から排除され、その後、何ヶ月にわたり無視され続けるということがありました。
(中略)
このセミナーで三女は出家信者たちから、恐怖を伴う神格化をされました。セミナーの課題は三女が出し、その課題をこなせたかどうかの判定も三女の独断で す。三女がOKしなければ苦痛と恐怖の伴う尋常でない修行と呼ばれるものを続けなければなりません。三女に気に入られなければならないのです。
三女を「三女のグルとしての力量を知った」「マハームドラーをかけて後輩弟子を導くことのできるステージ」と言って賞賛し、さらに神格化する人がたくさん 出ました。一方、脱会させないために行ったセミナーであったはずなのに、三女に恐怖してそのまま脱会した人もたくさん出る結果となりました。
●吉田恵子(ひかりの輪指導員)
わたしが参加したセミナーでは、大の大人が、「傲慢だ」ということで、車で遠くに連れて行かれ、一人で、何も食べずに何日か後にふらふらになって戻ってくる、ということがありました。いつも強気のその男性は、おびえた様子になっていました。
また、傲慢だということで、縛り蓮華座を長時間課せられた人たちがいました。すべて、三女が監修していました。
●小林由紀(ひかりの輪スタッフ)
観念崩壊セミナーに参加したわたしの知人の女性は、「縛り蓮華座」を続けさせられ、足がうっ血して、毒素が内臓に回り、救急車で運ばれる危険な状態になり、その後、足をびっこをひく身体障害者となってしまいました。
●内容の全体
「ひかりの輪 団体総括」より
悪天候の中、連日屋外に放置して食事を与えない、食事を与えなかった状態でいきなり無理やり大量に食べさせ、吐いたら吐いたものをまた食べさせる、水を浴びせ続ける、単純な運動を長時間繰り返させる等の、行き過ぎた「修行」が課せられたのでした。
その結果、救急車で搬送され、入院して両足を切断しかけるほどの重篤な症状になった者、その後も足に後遺症が出て足を引きずることになった者、転倒して頭 を打って負傷した者、酸素吸入が必要な状況になった者、意識を失いあやうく死にかけた者、断食後の無理な食事で胃の手術を受けることになった者、熱射病に 罹患する者が出るという異常事態となりました。
以上が、96年頃までの状況です。
次回は、以下の事実について掲載します。
>>② 2000年~裏から教団に関与
⑤ 補足:2014年前後からの教団への関与
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