【アレフの修行の危険性・目次】 現在のアレフの修行の、重大な危険性
(2012/04/20 17:21 の記事)
現在のアレフの修行には、重大な危険性があります。
それは、人を人格的におかしくし、 心身の健康を損ねる可能性のあるもので、現在の、麻原自身、 そして高弟と呼ばれた人たちを見れば明らかなものです。
そして、アレフの修行を経験してきたわたしたちも、同じように、人格をゆがめ、心身の健康を損ねてきました。
その反省から、アレフを脱会し、ひかりの輪を立ち上げました。
ひかりの輪では、その大変に苦い経験から、人格・心身の健康によい修行法を生みだし、それを実践し、 変わっていくことができました。
健全に、幸せになり、成長し、 悟っていくことのできる修行法です。
はまり込みの期間が長ければ長いほど、 抜け出すことが大変になってしまいます。
この危険性に、一人でも多くの方に陥ってほしくないと強く願い、以下にまとめました。
この項目を掲載していきます。
1 >>アレフの修行は、気づかないうちに、人を傲慢にする
(1) 称賛による虚栄心の増大
(2) 神秘体験による虚栄心の増大と、麻原への盲信への誘導
(3) 自己特別視による強い慢心の形成
2 >>アレフの修行は、人を妄想・現実逃避・精神病理に導く
(1) 陰謀論の妄説の盲信
(2) 妄想の社会観へ至ることで、悟りと正反対の無智に陥る
(3) 社会に対する被害妄想へ至り、精神が不安定になる
(4) 被害妄想とセットで、同時に誇大妄想に至る
(5) 現実逃避・精神病理の人格の形成
(6) 幹部信者たちの精神的な問題
3 >>アレフのヨーガの修行は、心身の健康を損ねる恐れがある
'(1) 正統ではない使い方をしている
(2) 慢心をもたらす使い方をしている
(3) 心身に負担がかかる
(4) ひかりの輪のヨーガ行法の改善
4 アレフの密教修行の問題
①>>麻原を絶対とすることは間違っている
②>>「グルがいないと修行できない」ことは過ち
5 アレフの密教の修行は、心身の健康を損ねる恐れがある
① >>チベット密教界からの警告から
② >>オウムの上層部に、精神的な疾患が発症している現実
③ >>アレフの「秘儀瞑想」麻原と合一する観想による人格破壊の危険性
④ アレフの密教修行は、 チベット密教をネタにしたものにすぎないため、 アレフから学ぶ必要はない
現在のアレフの修行には、重大な危険性があります。
それは、人を人格的におかしくし、
そして、アレフの修行を経験してきたわたしたちも、同じように、人格をゆがめ、心身の健康を損ねてきました。
その反省から、アレフを脱会し、ひかりの輪を立ち上げました。
ひかりの輪では、その大変に苦い経験から、人格・心身の健康によい修行法を生みだし、それを実践し、
健全に、幸せになり、成長し、
はまり込みの期間が長ければ長いほど、
この危険性に、一人でも多くの方に陥ってほしくないと強く願い、以下にまとめました。
この項目を掲載していきます。
1 >>アレフの修行は、気づかないうちに、人を傲慢にする
(1) 称賛による虚栄心の増大
(2) 神秘体験による虚栄心の増大と、麻原への盲信への誘導
(3) 自己特別視による強い慢心の形成
2 >>アレフの修行は、人を妄想・現実逃避・精神病理に導く
(1) 陰謀論の妄説の盲信
(2) 妄想の社会観へ至ることで、悟りと正反対の無智に陥る
(3) 社会に対する被害妄想へ至り、精神が不安定になる
(4) 被害妄想とセットで、同時に誇大妄想に至る
(5) 現実逃避・精神病理の人格の形成
(6) 幹部信者たちの精神的な問題
3 >>アレフのヨーガの修行は、心身の健康を損ねる恐れがある
'(1) 正統ではない使い方をしている
(2) 慢心をもたらす使い方をしている
(3) 心身に負担がかかる
(4) ひかりの輪のヨーガ行法の改善
4 アレフの密教修行の問題
①>>麻原を絶対とすることは間違っている
②>>「グルがいないと修行できない」ことは過ち
5 アレフの密教の修行は、心身の健康を損ねる恐れがある
① >>チベット密教界からの警告から
② >>オウムの上層部に、精神的な疾患が発症している現実
③ >>アレフの「秘儀瞑想」麻原と合一する観想による人格破壊の危険性
④ アレフの密教修行は、
【アレフ修行の危険性⑤】 ③アレフの「秘儀瞑想」麻原と合一する観想による人格破壊の危険性
(2012/06/10 18:13 の記事)
前回、オウムの上層部に、 精神的な疾患が発症している現実をお伝えしました。
>>【アレフ修行の危険性⑤】 アレフの密教修行の心身の健康を損ねる恐れ
②オウムの上層部に、精神的な疾患が発症している現実
麻原自身をはじめとして麻原の子女や、正大師、正悟師と呼ばれた
最高幹部の、悲惨な現状です。
これらの事態は、麻原が語っていたこととは正反対の現実です。
こうした、精神の病や、人格破壊にいたる背景には、麻原を「 グル」と規定して、
麻原のことを徹底的に意識し続け、観想(イメージ) し続けるという、
麻原が編み出した、オウム独特の修行がその一因となっている
と考えられるのではないかと思うのです。
結果、その対象、 つまり麻原の現在の状況と同じ状態になってしまうのではないか、
という危険性です。
そのことについて、宗形真紀子が著書
『二十歳からの20年間――“オウムの青春”の魔境を超えて』に
述べていますので、抜粋してご紹介します。
------------------------------ ------------------------------ -------
麻原は、高度な「秘儀瞑想」と称し、 麻原と心身ともども合一するイメージを
培う瞑想ばかりを作り上げていました。
そのため、わたしはこういった瞑想の中のいくつかを、 麻原の言うとおりに
500回~1000回以上もの回数行なったのです。
しかし、わたしは事件後、麻原の作り出したそれらの瞑想が、 悟りに導く瞑想
などではないだけではなく、本当に人間の人格を破壊し、
ともすれば統合失調症や廃人に導くものだ
という想像以上の悲惨な事実を理解するようになりました。
わたしは、事件後、麻原自身が不規則発言を始めて以降、
あのような状態になっていることを筆頭に、
オウムの中でも、 麻原に次ぐレベルとされていた高弟をはじめとする何人かが
統合失調症などの状態になってしまうのを見聞きしてきました。
例えば、麻原の子どもを産んだ女性たちや、 麻原の子女の中にもいました。
そういった症状になった人たちの中には、
麻原が自分を支配し乗っ取ろうとしているとか、
麻原がすべてを監視しているとか、 麻原が自分を邪魔しようとするとか、
麻原が自分の中に入ってくるとか、 麻原が話しかけてきて指示を出すとか、
睡眠中に麻原が入り込んでくるから眠りたくないとか、
麻原がそばについているとか、 自分が麻原になったり自分になったりするとか、
麻原なのか自分なのかわからなくなるとか、
麻原と自分が合一するのが視覚的に見えたり、 声として聞こえたり、
見えなくてもそういう感覚を感じたりするといった
「症状」を聞いたことがあります。
よくよく考えてみると、これらの内容は、 麻原の説いた中核の教えである
「自己を空っぽにし、空っぽになった器に、
なみなみとグルのデータを入れ、グルのクローン化をする」
というものと、
「グルと合一する」
というものの現象化と思えたのです。
わたしもオウム信者たちも、
麻原のデータ・エネルギーがたくさん入ってくるようにと、
脳波から、視覚から、聴覚から、 眠っている時間さえもテープをかけて、
何百回、何千回と、 相当な集中力で麻原のデータを入れ続けていました。
前回、オウムの上層部に、
>>【アレフ修行の危険性⑤】
②オウムの上層部に、精神的な疾患が発症している現実
麻原自身をはじめとして麻原の子女や、正大師、正悟師と呼ばれた
最高幹部の、悲惨な現状です。
これらの事態は、麻原が語っていたこととは正反対の現実です。
こうした、精神の病や、人格破壊にいたる背景には、麻原を「
麻原のことを徹底的に意識し続け、観想(イメージ)
麻原が編み出した、オウム独特の修行がその一因となっている
と考えられるのではないかと思うのです。
結果、その対象、
という危険性です。
そのことについて、宗形真紀子が著書
『二十歳からの20年間――“オウムの青春”の魔境を超えて』に
述べていますので、抜粋してご紹介します。
------------------------------
麻原は、高度な「秘儀瞑想」と称し、
培う瞑想ばかりを作り上げていました。
そのため、わたしはこういった瞑想の中のいくつかを、
500回~1000回以上もの回数行なったのです。
しかし、わたしは事件後、麻原の作り出したそれらの瞑想が、
などではないだけではなく、本当に人間の人格を破壊し、
ともすれば統合失調症や廃人に導くものだ
という想像以上の悲惨な事実を理解するようになりました。
わたしは、事件後、麻原自身が不規則発言を始めて以降、
あのような状態になっていることを筆頭に、
オウムの中でも、
統合失調症などの状態になってしまうのを見聞きしてきました。
例えば、麻原の子どもを産んだ女性たちや、
そういった症状になった人たちの中には、
麻原が自分を支配し乗っ取ろうとしているとか、
麻原がすべてを監視しているとか、
麻原が自分の中に入ってくるとか、
睡眠中に麻原が入り込んでくるから眠りたくないとか、
麻原がそばについているとか、
麻原なのか自分なのかわからなくなるとか、
麻原と自分が合一するのが視覚的に見えたり、
見えなくてもそういう感覚を感じたりするといった
「症状」を聞いたことがあります。
よくよく考えてみると、これらの内容は、
「自己を空っぽにし、空っぽになった器に、
なみなみとグルのデータを入れ、グルのクローン化をする」
というものと、
「グルと合一する」
というものの現象化と思えたのです。
わたしもオウム信者たちも、
麻原のデータ・エネルギーがたくさん入ってくるようにと、
脳波から、視覚から、聴覚から、
何百回、何千回と、
【アレフ修行の危険性⑤】 ②オウムの上層部に、精神的な疾患が発症している現実
(2012/06/08 21:43 の記事)
途中の⑤まで掲載していました、【 現在のアレフの修行の重大な危険性】の記事の続きを、
再開したいと思います。
前回は、以下の項目まで進んでいました。
>>【アレフ修行の危険性⑤】 アレフの密教修行の心身の健康を損ねる恐れ
①チベット密教界からの警告から
アレフで行われている「密教の修行」の一部には、 一般の人がなすならば、
精神的・身体的な危険性があるものが含まれています。
実際に、オウム真理教では、その激しいヨーガ・ 密教の集中修行や、
さらに、LSDや覚醒剤などの薬物を使った修行(オウム事件前) のために、
精神疾患が発生したと思われるケースが少なからずありました。
そのことについて、の続きとなります。
【アレフ修行の危険性⑤】 アレフの密教修行の心身の健康を損ねる恐れ
②オウムの上層部に、精神的な疾患が発症している現実
オウムには、「ステージ制度」というものがありました。
麻原が認定する、それは解脱のレベルの段階を示すもので、
地位や権力の伴う位階制度でもありました。
「成就者」「解脱者」「皇子(麻原の子女ら)」「正大師」「 正悟師」
と呼ばれた人たちが、最高幹部でした。
彼らは、麻原の定義では、通常の人間の比較にならないほど( 何百万倍など)、清らかで、
聖なる存在で、功徳の高い魂で、長寿となる、 人を超えた神のような存在とされていました。
しかし、それらの麻原が語っていたこととは正反対に、 今の現実は、
麻原自身を始めとして、そうした者たちの多くが、 精神を病んでいたり、
病気で既に亡くなっていたりという悲惨な状況に陥っているという 現実があります。
1 麻原自身や、麻原の家族や高弟たちの現実
【1】麻原自身(「最終解脱者」とされていた)
死刑囚として拘留中だが、裁判で不規則発言をするなど、
支離滅裂な行動をなしている。
詐病とも言われているが、弁護側・ 裁判所側の双方の精神科医の鑑定の結果は、
症状の程度に関する判断に違いはあれ(裁判を継続できるか否か) 、
拘禁症状である点では一致している。
【2】麻原の子女の一人(1999年前後の一時期、教団を主導)
(※アレフ教団内で、麻原の子女は、「皇子(こうし)」という
これまでの最高幹部のさらに上の地位とされている)
非現実的な世界観を抱くようになり、その後、精神病を発症し、 現在は、
生活保護を受給している。
【3】元一番弟子の女I・H・元正大師(教団最高幹部)
受刑中に拘禁症を発症し、出所後に、精神病を発症、入院・ 通院で加療。
現在は回復したとされる。
【4】元最高幹部の女性K・A・元正悟師( 正大師に次ぐ最高幹部)
一時期、精神病を発症、入院加療後に回復。
【5】元最高幹部の女性I・E・元正悟師
受刑中に脳障害、後遺症が残り、 成人レベルの知能までには回復せず。
【6】元最高幹部の女性 山本まゆみ・元正悟師
数年前に病死。
【7】一般信者
一般信者の一部にも、教団の集中修行の過程や、 薬物を使用した修行の後などに、
精神病を発症したものがいる(ただし、 因果関係は科学的には未だ検証されていない)。
2 見聞きした症状
本対策室の宗形が、こうした人たちを見聞きした症状について、
『二十歳からの20年間――“オウムの青春”の魔境を超えて』よ り抜粋してご紹介します。
わたしは、事件後、麻原自身が不規則発言を始めて以降、
あのような状態になっていることを筆頭に、オウムの中でも、
麻原に次ぐレベルとされていた高弟をはじめとする何人かが
統合失調症などの状態になってしまうのを見聞きしてきました。
例えば、麻原の子どもを産んだ女性たちや、 麻原の子女の中にもいました。
そういった症状になった人たちの中には、
麻原が自分を支配し乗っ取ろうとしているとか、
麻原がすべてを監視しているとか、
麻原が自分を邪魔しようとするとか、
麻原が自分の中に入ってくるとか、
麻原が話しかけてきて指示を出すとか、
睡眠中に麻原が入り込んでくるから眠りたくないとか、
麻原がそばについているとか、
自分が麻原になったり自分になったりするとか、
麻原なのか自分なのかわからなくなるとか、
麻原と自分が合一するのが視覚的に見えたり、 声として聞こえたり、
見えなくてもそういう感覚を感じたりするといった「症状」 を聞いたことがあります。
次に続きます。
途中の⑤まで掲載していました、【
再開したいと思います。
前回は、以下の項目まで進んでいました。
>>【アレフ修行の危険性⑤】
①チベット密教界からの警告から
アレフで行われている「密教の修行」の一部には、
精神的・身体的な危険性があるものが含まれています。
実際に、オウム真理教では、その激しいヨーガ・
さらに、LSDや覚醒剤などの薬物を使った修行(オウム事件前)
精神疾患が発生したと思われるケースが少なからずありました。
そのことについて、の続きとなります。
【アレフ修行の危険性⑤】
②オウムの上層部に、精神的な疾患が発症している現実
オウムには、「ステージ制度」というものがありました。
麻原が認定する、それは解脱のレベルの段階を示すもので、
地位や権力の伴う位階制度でもありました。
「成就者」「解脱者」「皇子(麻原の子女ら)」「正大師」「
と呼ばれた人たちが、最高幹部でした。
彼らは、麻原の定義では、通常の人間の比較にならないほど(
聖なる存在で、功徳の高い魂で、長寿となる、
しかし、それらの麻原が語っていたこととは正反対に、
麻原自身を始めとして、そうした者たちの多くが、
病気で既に亡くなっていたりという悲惨な状況に陥っているという
1 麻原自身や、麻原の家族や高弟たちの現実
【1】麻原自身(「最終解脱者」とされていた)
死刑囚として拘留中だが、裁判で不規則発言をするなど、
支離滅裂な行動をなしている。
詐病とも言われているが、弁護側・
症状の程度に関する判断に違いはあれ(裁判を継続できるか否か)
拘禁症状である点では一致している。
【2】麻原の子女の一人(1999年前後の一時期、教団を主導)
(※アレフ教団内で、麻原の子女は、「皇子(こうし)」という
これまでの最高幹部のさらに上の地位とされている)
非現実的な世界観を抱くようになり、その後、精神病を発症し、
生活保護を受給している。
【3】元一番弟子の女I・H・元正大師(教団最高幹部)
受刑中に拘禁症を発症し、出所後に、精神病を発症、入院・
現在は回復したとされる。
【4】元最高幹部の女性K・A・元正悟師(
一時期、精神病を発症、入院加療後に回復。
【5】元最高幹部の女性I・E・元正悟師
受刑中に脳障害、後遺症が残り、
【6】元最高幹部の女性 山本まゆみ・元正悟師
数年前に病死。
【7】一般信者
一般信者の一部にも、教団の集中修行の過程や、
精神病を発症したものがいる(ただし、
2 見聞きした症状
本対策室の宗形が、こうした人たちを見聞きした症状について、
『二十歳からの20年間――“オウムの青春”の魔境を超えて』よ
わたしは、事件後、麻原自身が不規則発言を始めて以降、
あのような状態になっていることを筆頭に、オウムの中でも、
麻原に次ぐレベルとされていた高弟をはじめとする何人かが
統合失調症などの状態になってしまうのを見聞きしてきました。
例えば、麻原の子どもを産んだ女性たちや、
そういった症状になった人たちの中には、
麻原が自分を支配し乗っ取ろうとしているとか、
麻原がすべてを監視しているとか、
麻原が自分を邪魔しようとするとか、
麻原が自分の中に入ってくるとか、
麻原が話しかけてきて指示を出すとか、
睡眠中に麻原が入り込んでくるから眠りたくないとか、
麻原がそばについているとか、
自分が麻原になったり自分になったりするとか、
麻原なのか自分なのかわからなくなるとか、
麻原と自分が合一するのが視覚的に見えたり、
見えなくてもそういう感覚を感じたりするといった「症状」
次に続きます。
【アレフ修行の危険性⑤】アレフの密教修行の心身の健康を損ねる恐れ1 チベット密教界からの警告から
(2012-05-25 01:32:34 の記事)
アレフで行われている「密教の修行」の一部には、 一般の人がなすならば、
精神的・身体的な危険性があるものが含まれています。
実際に、オウム真理教では、その激しいヨーガ・ 密教の集中修行や、
さらに、LSDや覚醒剤などの薬物を使った修行(オウム事件前) のために、
精神疾患が発生したと思われるケースが少なからずありました。
これは割合としては一部の人に起こるので、そうした場合、
アレフでは、「麻原への帰依がないから魔境に入った」 などとして、
「例外的な事例」として排除され、問題視されませんが、
実は、伝統宗派では、アレフで通常行われている「密教の瞑想法」 などの
修行法を多くの者に安直に与えること自体が
大きな問題であるとされているのです。
その危険性と問題について、参考書籍を参照しながら、
以下に詳しく述べていきたいと思います。
アレフの「密教修行」は、密教の精神の基本を満たしていない
アレフでは、麻原に対する絶対的な帰依の実践をして、
麻原と合一する境地を目指しており、
そのために「秘儀瞑想」と呼ばれる観想法を「密教の修行」 として行っています。
ですが、アレフのそれは、 正統なチベット密教などの密教の修行が目的とする
一つの共通点とは、まったく違う目的となってしまっています。
それは、本来の大乗仏教の重要な見解と思われる、
「この世界が、本質的には、涅槃の世界・仏の浄土と同一で、
凡夫は仏と同一である」という、世界や人々を、 浄土や仏であると、
豊かに感じるという一元の境地(「仏陀の境地」と呼ばれる)
の精神がないという、重大な問題点です。
アレフでは、その大乗仏教の精神とは正反対に、
信者以外の人々と、自分たちを明確に区別して、
この世界は滅びるものとして否定し、
麻原の弟子となった者たちだけが救われると、 おおよそ以下のように考えています。
「この世界は悪業多き世界で、ハルマゲドンで滅びる。
死後に、この世界と別の、遙か遠くの高い世界にある“ マハーニルヴァーナ”
に生まれ変わることを目指す。
また、仏は麻原だけであり、地獄に堕ちるほとんどの凡夫と違い、
アレフの修行者だけは高い世界に生まれ変わる」
このように、アレフの教えは、「密教」と自ら呼んでいても、
本来の大乗仏教の豊かな精神と、正反対といえる考え方なのです。
ですので、アレフの修行を「密教」 と呼ぶことは適切ではないと思われますが、
ここでは、アレフの「秘儀瞑想」と呼ばれる手法自体について、
チベット密教において、 高度と呼ばれるものに類似した瞑想手法を使っているために、
便宜上、「アレフの密教修行」と呼ぶことにします。
適さない人にも、危険性のある「密教修行」をさせている問題
「密教修行」のうち、高度な行法や瞑想を行う場合は、本来は、
① 心身の状態が、 そういった修行法に適しているかどうかの向き不向きを判断し、
② 向いているとしても、先の「仏陀の境地」に至るような
精神的な教えを十分に修習し、心を浄化しつつ行う
という必要があります。
それにもかかわらず、 この精神的な浄化を伴わないで行うアレフの密教の瞑想修行は、
本当の効果を上げないばかりではなく、
瞑想修行による神秘体験により、慢心が増大し、いわゆる「 増上慢」「魔境」
と呼ばれる状態に陥りかねません。
特に、密教で「究竟次第」「無上ヨーガタントラ」「 チャンダリー」
「グルヨーガ」と呼ばれる修行や、
ヨーガでクンダリニー・ヨーガと呼ばれる修行は、 その危険性が大きいものです。
さらに、この修行は、適切なやり方をしなければ、 特に身体に負担をかけ、
心身の健康を損なう危険性があります。
しかし、アレフでは、入会したての人にさえ、ほとんど無条件に、
そうした高度な瞑想法の手法だけを模した瞑想法を行わせています 。
こういった密教の瞑想に関する問題・危険性・注意事項、
そしてオウム・アレフの瞑想法に対する問題について、
ダライ・ラマ法王の命によって来日し、その後
「日本において密教の最高級の修行法を正しく紹介してほしい」
という要請を受けたというゲルク派の僧侶ツルティム・ケサン氏( 大谷大学教授)と正木晃氏が、
その共著『チベット密教 図説マンダラ瞑想法』(ビイング・ネット・プレス)の中で、 警告を発しています。
その著書の中で、高度な瞑想法が公開されているのですが、
本来は、密教以外の仏教、顕教を学び、修行を成就して、灌頂とい う入門儀式を
授けられていなければならないとされています。
そして、その意味合いについて以下のように書かれています。
―――――――――――――――――――――――――――――― ――――――
その本質はその人物が密教を学ぶにふさわしいか否かを判定するこ とにある。
むろん、灌頂を云々する以前に、 顕教を学ぶためには出家していなければならない。
こうした厳格な条件を考えれば、 仏教者であるか否かもわからない読者の方々に、
密教の瞑想を解説する行為は、はなはだ疑問がある。
古来の文献を見ても、門外漢に密教の秘法を開示することは、 かたく禁じられている。
にもかかわらず、私たちがチベット密教の瞑想を、 多くの方々に知っていただきたいとねがい、
出版するに至ったのは、いま、 時代がそれを要請していると判断したからなのだ。
すでに、チベット密教の瞑想は、ある程度まで、 世情に流布してしまっている。
それも大半は、 あやまっていたり断片的だったりするものばかりである。
ましてや、それぞれの瞑想のもつ深い意味や危険性などは、 ほとんど無視されてきた。
その結果が、オウム真理教の暴走だったと、 私たちはみなしている。
こうした状況をただすためには、正確な情報が欠かせない。
―――――――――――――――――――――――――――――― ――――――
ここでツルティム・ケサン氏は、密教の修行をするためには、
密教者としての資格が必要で、そのためには、 顕教の教義を成就したうえで、
灌頂を授けられていなければならない、としています。
ですが、これは、誰でも、潅頂を受けていればいいのではなく、
「灌頂というのは、外面的には、師の僧(ラマ・グル)から頭頂に
水をかけられる入門儀式(イニシエーション)だが、
その本質はその人物が密教を学ぶにふさわしいか否かを判定するこ とにある。」
という点が重要なところです。
すなわち、本来はそれを授ける師の僧の側が、
密教に適切な人間を選ばなければならないということなのです。
ですが、オウム真理教の場合は、現在のアレフも、
密教どころか、顕教も成就していない、入会したての人にさえ、 ほとんど無条件に、
無上ヨーガタントラとか、 ツァンダリーとかグルヨーガといった高度な瞑想法を
伝授していることは大きな問題なのです。
ツルティム・ケサン氏は、 そうしたやむにやまれぬ時代の状況に鑑み、
著書の中で、瞑想法を公開したと書かれています。
しかし、その危険性について、何度も、 以下のように付け加えられています。
―――――――――――――――――――――――――――――― ――――――
「ただし、チベット密教の瞑想には、 いろいろな危険性もつきまとう。
その点は、すでに指摘したとおりだ。
私たちの発した注意は、くれぐれも守っていただきたい。」
―――――――――――――――――――――――――――――― ――――――
やり方を誤れば、 逆に心身に危険性もつきまとうという事実について、 繰り返し述べられています。
そこで、同氏は、チベット密教の瞑想の危険性に関連して、
それを行う場合の心身の条件、すなわち、 どのような場合は瞑想が好ましくないか
についても詳細に述べているので、その一部を参照しますが、
特に、アレフ信者で、このような「密教修行」を行っている方は、 ぜひとも
一度、『チベット密教 図説マンダラ瞑想法』(ビイング・ネット・プレス)の熟読を
強くおすすめします。
------------------------------ ------------------------------ ----------------------------
「しかしながら、では誰でも瞑想できるのか? というと、そうはゆかない場合もある。
瞑想することによって、 心身の状態をかえって悪くしてしまう事態も起こるからだ。
一般論としていえば、心身に違和感がある場合は、 瞑想はしないほうがいい。
(略)したがって、高血圧や低血圧の症状がある方、 心臓や肺に疾患がある方などは、
瞑想は控えたほうが無難である。(略)
さらに、いわゆる精神病理的な症状がある方も、 瞑想はおすすめできない。
鬱症状や躁症状をはじめ、神経症などの疑いがある場合も、
瞑想は症状を悪化させてしまう可能性が否めない。(略)
とくに精神病理的な症状を呈していなくても、人と物とを問わず、
なんらかの対象に強い依存傾向のある方は、 瞑想は実践しないでいただきたい。
いわゆる瞑想依存症ないしは瞑想オタクになりかねないからである 。
そうなると、四六時中、瞑想していないと、 生きている実感がもてなくなったり、
瞑想以外の行為にまったく関心がもてなくなってしまう危険性があ る。
かつてオウム真理教の信者のなかに、 この種の人物が少なからずあった。
こうした人々は、一見すると、 熱心に瞑想に取り組んでいるかのように見えるが、
実は瞑想に依存しているにすぎない。」(同前掲書)
―――――――――――――――――――――――――――――― ――――――
さらに、最上級の瞑想の中でも、 さらに高度な瞑想とされるものに、
チャンダリーなどの究竟次第の瞑想があるが、その瞑想になると、
同氏の示す条件はさらに厳しいものとなります。
オウム真理教では、チャンダリーの瞑想が、無差別に伝授され、
アレフにおいてもそのようにされていますが、
それはチベット密教のものから見れば、単純・ 簡易なものだったとはいえ、
その実践には、相当な注意を要することがわかるはずです。
この、ダライラマ法王からの命で発刊された、
高僧と正木晃氏の共著を、ぜひお読み下さい。
ぜひとも、その危険性を、熟知していただきたいと切に願います。
―――――――――――――――――――――――――――――― ――――――
「究竟次第(完成のプロセス)系の修行は、 なまはんかなことでは実践を許されない。
(略)
その理由は究竟次第系の修行をすすめてゆくと、 往々にして心身生理に不調を生じがちで、
それに耐えられる強靱さをもっていないと、 とんでもない結果が待っているからだ。
多少の体調不良くらいで済むならばまだしも、ひどくすると、 死に至ることもある。
また、異様な精神集中をつづけさせられるせいか、 脳生理にも悪影響が出やすい。
そして、精神錯乱の果てに、狂気に陥ることもある。(略)
むろん、チベット密教の伝統は、こうした事態にどう対処するか、 を久しく検討してきた。
その結論は、未然に防止するにまさる手段はないということだ。( 略)
―――――――――――――――――――――――――――――― ――――――
一般論からいうと、出家した僧侶のうち、 だいたい十人に一人くらいしか許さないとも書かれていました。
果たして、この条件に当てはまる、アレフ信者は何人いるのか疑問 が生じることと思います。
アレフは、それを行う大前提として、 伝統的な密教の基本精神を押さえていないのですから、
誰一人して、この条件に当てはまる人はいないはずです。
このように、アレフで気軽に無差別に伝授されている
「小乗のツァンダリー」「グルヨーガ」「 グルヨーガマイトレーヤの瞑想」
などのいわゆる「秘儀瞑想」といった瞑想法は、 大変に危険な瞑想法であると言えるのです。
アレフで行われている「密教の修行」の一部には、
精神的・身体的な危険性があるものが含まれています。
実際に、オウム真理教では、その激しいヨーガ・
さらに、LSDや覚醒剤などの薬物を使った修行(オウム事件前)
精神疾患が発生したと思われるケースが少なからずありました。
これは割合としては一部の人に起こるので、そうした場合、
アレフでは、「麻原への帰依がないから魔境に入った」
「例外的な事例」として排除され、問題視されませんが、
実は、伝統宗派では、アレフで通常行われている「密教の瞑想法」
修行法を多くの者に安直に与えること自体が
大きな問題であるとされているのです。
その危険性と問題について、参考書籍を参照しながら、
以下に詳しく述べていきたいと思います。

アレフでは、麻原に対する絶対的な帰依の実践をして、
麻原と合一する境地を目指しており、
そのために「秘儀瞑想」と呼ばれる観想法を「密教の修行」
ですが、アレフのそれは、
一つの共通点とは、まったく違う目的となってしまっています。
それは、本来の大乗仏教の重要な見解と思われる、
「この世界が、本質的には、涅槃の世界・仏の浄土と同一で、
凡夫は仏と同一である」という、世界や人々を、
豊かに感じるという一元の境地(「仏陀の境地」と呼ばれる)
の精神がないという、重大な問題点です。
アレフでは、その大乗仏教の精神とは正反対に、
信者以外の人々と、自分たちを明確に区別して、
この世界は滅びるものとして否定し、
麻原の弟子となった者たちだけが救われると、
「この世界は悪業多き世界で、ハルマゲドンで滅びる。
死後に、この世界と別の、遙か遠くの高い世界にある“
に生まれ変わることを目指す。
また、仏は麻原だけであり、地獄に堕ちるほとんどの凡夫と違い、
アレフの修行者だけは高い世界に生まれ変わる」
このように、アレフの教えは、「密教」と自ら呼んでいても、
本来の大乗仏教の豊かな精神と、正反対といえる考え方なのです。
ですので、アレフの修行を「密教」
ここでは、アレフの「秘儀瞑想」と呼ばれる手法自体について、
チベット密教において、
便宜上、「アレフの密教修行」と呼ぶことにします。

「密教修行」のうち、高度な行法や瞑想を行う場合は、本来は、
① 心身の状態が、
② 向いているとしても、先の「仏陀の境地」に至るような
精神的な教えを十分に修習し、心を浄化しつつ行う
という必要があります。
それにもかかわらず、
本当の効果を上げないばかりではなく、
瞑想修行による神秘体験により、慢心が増大し、いわゆる「
と呼ばれる状態に陥りかねません。
特に、密教で「究竟次第」「無上ヨーガタントラ」「
「グルヨーガ」と呼ばれる修行や、
ヨーガでクンダリニー・ヨーガと呼ばれる修行は、
さらに、この修行は、適切なやり方をしなければ、
心身の健康を損なう危険性があります。
しかし、アレフでは、入会したての人にさえ、ほとんど無条件に、
そうした高度な瞑想法の手法だけを模した瞑想法を行わせています
こういった密教の瞑想に関する問題・危険性・注意事項、
そしてオウム・アレフの瞑想法に対する問題について、
ダライ・ラマ法王の命によって来日し、その後
「日本において密教の最高級の修行法を正しく紹介してほしい」
という要請を受けたというゲルク派の僧侶ツルティム・ケサン氏(
その共著『チベット密教 図説マンダラ瞑想法』(ビイング・ネット・プレス)の中で、
その著書の中で、高度な瞑想法が公開されているのですが、
本来は、密教以外の仏教、顕教を学び、修行を成就して、灌頂とい
授けられていなければならないとされています。
そして、その意味合いについて以下のように書かれています。
――――――――――――――――――――――――――――――
その本質はその人物が密教を学ぶにふさわしいか否かを判定するこ
むろん、灌頂を云々する以前に、
こうした厳格な条件を考えれば、
密教の瞑想を解説する行為は、はなはだ疑問がある。
古来の文献を見ても、門外漢に密教の秘法を開示することは、
にもかかわらず、私たちがチベット密教の瞑想を、
出版するに至ったのは、いま、
すでに、チベット密教の瞑想は、ある程度まで、
それも大半は、
ましてや、それぞれの瞑想のもつ深い意味や危険性などは、
その結果が、オウム真理教の暴走だったと、
こうした状況をただすためには、正確な情報が欠かせない。
――――――――――――――――――――――――――――――
ここでツルティム・ケサン氏は、密教の修行をするためには、
密教者としての資格が必要で、そのためには、
灌頂を授けられていなければならない、としています。
ですが、これは、誰でも、潅頂を受けていればいいのではなく、
「灌頂というのは、外面的には、師の僧(ラマ・グル)から頭頂に
水をかけられる入門儀式(イニシエーション)だが、
その本質はその人物が密教を学ぶにふさわしいか否かを判定するこ
という点が重要なところです。
すなわち、本来はそれを授ける師の僧の側が、
密教に適切な人間を選ばなければならないということなのです。
ですが、オウム真理教の場合は、現在のアレフも、
密教どころか、顕教も成就していない、入会したての人にさえ、
無上ヨーガタントラとか、
伝授していることは大きな問題なのです。
ツルティム・ケサン氏は、
著書の中で、瞑想法を公開したと書かれています。
しかし、その危険性について、何度も、
――――――――――――――――――――――――――――――
「ただし、チベット密教の瞑想には、
その点は、すでに指摘したとおりだ。
私たちの発した注意は、くれぐれも守っていただきたい。」
――――――――――――――――――――――――――――――
やり方を誤れば、
そこで、同氏は、チベット密教の瞑想の危険性に関連して、
それを行う場合の心身の条件、すなわち、
についても詳細に述べているので、その一部を参照しますが、
特に、アレフ信者で、このような「密教修行」を行っている方は、
一度、『チベット密教 図説マンダラ瞑想法』(ビイング・ネット・プレス)の熟読を
強くおすすめします。
------------------------------
「しかしながら、では誰でも瞑想できるのか? というと、そうはゆかない場合もある。
瞑想することによって、
一般論としていえば、心身に違和感がある場合は、
(略)したがって、高血圧や低血圧の症状がある方、
瞑想は控えたほうが無難である。(略)
さらに、いわゆる精神病理的な症状がある方も、
鬱症状や躁症状をはじめ、神経症などの疑いがある場合も、
瞑想は症状を悪化させてしまう可能性が否めない。(略)
とくに精神病理的な症状を呈していなくても、人と物とを問わず、
なんらかの対象に強い依存傾向のある方は、
いわゆる瞑想依存症ないしは瞑想オタクになりかねないからである
そうなると、四六時中、瞑想していないと、
瞑想以外の行為にまったく関心がもてなくなってしまう危険性があ
かつてオウム真理教の信者のなかに、
こうした人々は、一見すると、
実は瞑想に依存しているにすぎない。」(同前掲書)
――――――――――――――――――――――――――――――
さらに、最上級の瞑想の中でも、
チャンダリーなどの究竟次第の瞑想があるが、その瞑想になると、
同氏の示す条件はさらに厳しいものとなります。
オウム真理教では、チャンダリーの瞑想が、無差別に伝授され、
アレフにおいてもそのようにされていますが、
それはチベット密教のものから見れば、単純・
その実践には、相当な注意を要することがわかるはずです。
この、ダライラマ法王からの命で発刊された、
高僧と正木晃氏の共著を、ぜひお読み下さい。
ぜひとも、その危険性を、熟知していただきたいと切に願います。
――――――――――――――――――――――――――――――
「究竟次第(完成のプロセス)系の修行は、
(略)
その理由は究竟次第系の修行をすすめてゆくと、
それに耐えられる強靱さをもっていないと、
多少の体調不良くらいで済むならばまだしも、ひどくすると、
また、異様な精神集中をつづけさせられるせいか、
そして、精神錯乱の果てに、狂気に陥ることもある。(略)
むろん、チベット密教の伝統は、こうした事態にどう対処するか、
その結論は、未然に防止するにまさる手段はないということだ。(
――――――――――――――――――――――――――――――
一般論からいうと、出家した僧侶のうち、
果たして、この条件に当てはまる、アレフ信者は何人いるのか疑問
アレフは、それを行う大前提として、
誰一人して、この条件に当てはまる人はいないはずです。
このように、アレフで気軽に無差別に伝授されている
「小乗のツァンダリー」「グルヨーガ」「
などのいわゆる「秘儀瞑想」といった瞑想法は、
【アレフ修行の危険性④】アレフの密教修行の問題2 「グルがいないと修行できない」ことは過ち
(2012-05-24 19:55:31 の記事)
アレフの密教修行の問題 ①麻原を絶対とすることは間違っている
の続きです。
そして、こうしたオウム・アレフの反省に基づいて、 わたしたちは、ひかりの輪で、
アレフのように、グルと絶対者・ 崇拝対象とするグルイズムを超えた
修行法・宗教観を形成してきました。
そのために、ヨーガ・仏教の教えを再度研究し、
「グルがいないと修行ができない」という考え方は、 仏教やヨーガ全体の考え方ではない、
と結論しました。
仏教の修行においては、密教でこそグルが強調されますが、
釈迦牟尼自身が説いた上座部(テーラヴァーダ)の教えでは、
ご存じのように、それはありません。
むしろ、釈迦牟尼は、
「釈迦牟尼を含めて、人を崇めることを否定する教えを説いた」
ということが、仏教研究上は、広く認められている事実です。
弟子たちに、「 めいめいの自己と法則を帰依処とするように説いた」 ということです。
ですから、アレフが主張する「グルがいないと修行できない」 という考え方は、
「 間違ったグルイズムが強調されたオウム真理教の一種の固定観念」
でしかないのです。
では、これらの釈迦牟尼の教えについて、 以下に引用したいと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――― ――――――
『大パリニッバーナ経(大完全煩悩破壊経)』(岩波文庫『 ブッダ最後の旅』中村元訳)
アーナンダよ、修行僧らはわたしに何を待望するのであるか?
わたくしは内外の区別なしに(ことごとく)法を説いた。
完き人の教法には、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳[ にぎりこぶし]は、存在しない。
『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、
あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』
とこのように思う者こそ、 修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。
しかし向上につとめた人(※漢訳では「如来」となる)は
『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、
あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』 とか思うことがない。
向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。
アーナンダよ、わたしはもう朽ち、齢をかさね老衰し、 人生の旅路を通り過ぎ、
老齢に達して、わが齢は八十となった。
アーナンダよ。 譬えば古ぼけた車が皮紐の助けによってやっと動いて行くように、
わたしの車体も皮紐のたすけによってもっているのだ。
しかし、アーナンダよ、 向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく
一々の感受を滅したことによって、 相のない心の統一に入ってとどまるとき、
そのとき、かれの身体は健全なのである。
それ故に、アーナンダよ、この世で自らを島(灯明)とし、 自らをよりどころとして、
他人をよりどころとせず、法を島(灯明)とし、 法をよりどころとして、
他のものをよりどころとせずにあれ。(中略)
アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、
誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、
法を島とし、法をよりどころとし、 他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、
かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう。
―――――――――――――――――――――――――――――― ――――――
この経典を見ると、釈迦牟尼は、
「自分が教団の指導者である」ということを自ら否定していること がわかります。
その代わり、「めいめいの自己と法をより所にすべきである」 としています。
次に引用する経典では、
釈迦牟尼が、「私(釈迦)を仰いでも何の意味もない」と言明する 部分があり、
釈迦牟尼個人を崇拝してはならず、
崇拝すべきは法であることを示している経典として、 有名なものです。
―――――――――――――――――――――――――――――― ――――――
『サンユッタ・ニカーヤ』(相応部経典)より
釈迦は、弟子・ヴァッカリの余命が幾許もないと聞き、 家を訪れたが、
その時、病いに臥せていたヴァッカリは、
「末期の思い出に、今一度、世尊の御顔を仰ぎ、 御足を頂礼いたしたいと思いました」
と言った。
その言葉に応えて釈迦は死期の近いヴァッカリに、 厳しく言い放った。
「汝は、この私の爛懐の身(壊れ爛れる無常の体) を見てもなんにもなりはしない。
汝はかく知らねばならない。法を見るものは我を見る。 我を見るものは法を見る」
―――――――――――――――――――――――――――――― ――――――
次に引用するのは、ダライ・ラマ法王の見解です。
この著書の中で、法王は、「師ではなく、教えに対する信を持て」 と説いており、
しかも、それを示唆する釈迦牟尼の教えを引用しています。
―――――――――――――――――――――――――――――― ――――――
ダライ・ラマ十四世著『宇宙のダルマ』より
この解釈学的なアプローチで重要なのは、 大乗の四つの信の理論です。それは、
(1)師ではなく教えに対する信、
(2)言葉の表現ではなくその意味に対する信、
(3)一時的な意味ではなく真実の意味に対する信、
(4)知識ではなく深い体験から生まれる超越的な智慧に対する信
からなります。
四信の理論の一番目は、教えを聴いたり論書を読んだりするとき、
そこで述べられていることの妥当性を、
語り手の名声や財産、地位、 権力にもとづいて判断すべきではなく、
教えそのものの価値にもとづいて判断すべきだということです。
二番目の理論では、著作の判断は文章の形式によってではなく、
主題についてどれだけしっかり論じているかによって行うべきだと 言っています。
三番目の理論は、命題の妥当性について考えるときは、
その一時的な意味ではなく、 究極的に言わんとしている内容によって、
判断すべきだと命じています。
最後に、四番目の理論は、真理を信頼する場合、
経験を通して獲得した智慧と理解の力にもとづくべきであり、
理論的知識だけに頼ってはいけないと述べているのです。
このアプローチの妥当性を示す証左となる一節を、
ブッダ自身の言葉の中に見いだすことができます。
彼は次のようにすすめています。
「おお、比丘たち、そして賢者達よ、あたかも金職人が、焼いて、 切って、擦って、
金を試すように、私の言葉を、吟味して、受け取りなさい。
私への崇拝の念だけで受け取ってはいけない。」
―――――――――――――――――――――――――――――― ――――――
こうして、 グルイズムを非常に重視してきたチベット密教において、
その最高指導者であるダライ・ラマ法王が、
「師ではなく、教えに対する信」を強調していることは、
非常に興味深いことだと思います。
また、アレフでは、密教だけでなく、 ヨーガの修行を進めるためにも、
グルへの帰依が不可欠だと説いていますが、
ヨーガ根本経典においては、 グルのいない場合の修行の方法が説かれています。
―――――――――――――――――――――――――――――― ――――――――――
佐保田鶴治著『ヨーガ根本経典』より
しかし、本物のグルに出会うということは今日まれな幸運ですが、
昔も事情は変わっていなかったと思います。
そこでグルに出会うことができない運命にある行者は絶望的かとい うと、
そこに救いとなるのが、 自在神のめい助を祈願するという方法です。
自在神はグルのグルなのです。
―――――――――――――――――――――――――――――― ――――――――――
そして、人を神やグルとしない実践を行う「ひかりの輪」では、
現在、修行として、三悟心経を実践していま す。
これは、すべての人の中に、「仏性」という仏に至る可能性、 種子があると考える
大乗仏教の教えが入っています。
これは、修験道の修行を行うなかで「般若心経」 を繰り返し読経したことから
生まれたものですが、その内容は、 オウムの誤ったグルイズムの教えを
越えていくものでもあります。
「万物恩恵、万物感謝、
万物仏、万物尊重、
万物一体 万物愛す」
という短い経文を、意味を考えながら唱える修行なのですが、
「万物を恩恵と見て感謝する、
万物を仏と同等に平等に尊重する、
万物を一体と見て愛す」
という意味で、オウムの精神的問題を乗り越える内容でもあり、
「万物恩恵、万物感謝」は、 自分たちを支えている社会への感謝を忘れて、
それを攻撃した、麻原・オウムの教義を乗り越えるものです。
「万物仏、万物尊重」は、麻原のみを仏の化身として絶対視し、
オウム以外の人々を軽蔑した傲慢な教義を乗り越えるものです。
「万物一体、万物愛す」は、自分たちと社会を強く区別し、
社会を敵視した麻原やオウムの教義を乗り越えるものです。
こうした、心の訓練を行うことが、 オウムの誤ったグルイズムに陥らずに、
心を本当に豊かにしていく道だと考えて実践しています。
アレフの密教修行の問題 ①麻原を絶対とすることは間違っている
の続きです。
そして、こうしたオウム・アレフの反省に基づいて、
アレフのように、グルと絶対者・
修行法・宗教観を形成してきました。
そのために、ヨーガ・仏教の教えを再度研究し、
「グルがいないと修行ができない」という考え方は、
と結論しました。
仏教の修行においては、密教でこそグルが強調されますが、
釈迦牟尼自身が説いた上座部(テーラヴァーダ)の教えでは、
ご存じのように、それはありません。
むしろ、釈迦牟尼は、
「釈迦牟尼を含めて、人を崇めることを否定する教えを説いた」
ということが、仏教研究上は、広く認められている事実です。
弟子たちに、「
ですから、アレフが主張する「グルがいないと修行できない」
「
でしかないのです。
では、これらの釈迦牟尼の教えについて、
――――――――――――――――――――――――――――――
『大パリニッバーナ経(大完全煩悩破壊経)』(岩波文庫『
アーナンダよ、修行僧らはわたしに何を待望するのであるか?
わたくしは内外の区別なしに(ことごとく)法を説いた。
完き人の教法には、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳[
『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、
あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』
とこのように思う者こそ、
しかし向上につとめた人(※漢訳では「如来」となる)は
『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、
あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』
向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。
アーナンダよ、わたしはもう朽ち、齢をかさね老衰し、
老齢に達して、わが齢は八十となった。
アーナンダよ。
わたしの車体も皮紐のたすけによってもっているのだ。
しかし、アーナンダよ、
一々の感受を滅したことによって、
そのとき、かれの身体は健全なのである。
それ故に、アーナンダよ、この世で自らを島(灯明)とし、
他人をよりどころとせず、法を島(灯明)とし、
他のものをよりどころとせずにあれ。(中略)
アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、
誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、
法を島とし、法をよりどころとし、
かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう。
――――――――――――――――――――――――――――――
この経典を見ると、釈迦牟尼は、
「自分が教団の指導者である」ということを自ら否定していること
その代わり、「めいめいの自己と法をより所にすべきである」
次に引用する経典では、
釈迦牟尼が、「私(釈迦)を仰いでも何の意味もない」と言明する
釈迦牟尼個人を崇拝してはならず、
崇拝すべきは法であることを示している経典として、
――――――――――――――――――――――――――――――
『サンユッタ・ニカーヤ』(相応部経典)より
釈迦は、弟子・ヴァッカリの余命が幾許もないと聞き、
その時、病いに臥せていたヴァッカリは、
「末期の思い出に、今一度、世尊の御顔を仰ぎ、
と言った。
その言葉に応えて釈迦は死期の近いヴァッカリに、
「汝は、この私の爛懐の身(壊れ爛れる無常の体)
汝はかく知らねばならない。法を見るものは我を見る。
――――――――――――――――――――――――――――――
次に引用するのは、ダライ・ラマ法王の見解です。
この著書の中で、法王は、「師ではなく、教えに対する信を持て」
しかも、それを示唆する釈迦牟尼の教えを引用しています。
――――――――――――――――――――――――――――――
ダライ・ラマ十四世著『宇宙のダルマ』より
この解釈学的なアプローチで重要なのは、
(1)師ではなく教えに対する信、
(2)言葉の表現ではなくその意味に対する信、
(3)一時的な意味ではなく真実の意味に対する信、
(4)知識ではなく深い体験から生まれる超越的な智慧に対する信
からなります。
四信の理論の一番目は、教えを聴いたり論書を読んだりするとき、
そこで述べられていることの妥当性を、
語り手の名声や財産、地位、
教えそのものの価値にもとづいて判断すべきだということです。
二番目の理論では、著作の判断は文章の形式によってではなく、
主題についてどれだけしっかり論じているかによって行うべきだと
三番目の理論は、命題の妥当性について考えるときは、
その一時的な意味ではなく、
判断すべきだと命じています。
最後に、四番目の理論は、真理を信頼する場合、
経験を通して獲得した智慧と理解の力にもとづくべきであり、
理論的知識だけに頼ってはいけないと述べているのです。
このアプローチの妥当性を示す証左となる一節を、
ブッダ自身の言葉の中に見いだすことができます。
彼は次のようにすすめています。
「おお、比丘たち、そして賢者達よ、あたかも金職人が、焼いて、
金を試すように、私の言葉を、吟味して、受け取りなさい。
私への崇拝の念だけで受け取ってはいけない。」
――――――――――――――――――――――――――――――
こうして、
その最高指導者であるダライ・ラマ法王が、
「師ではなく、教えに対する信」を強調していることは、
非常に興味深いことだと思います。
また、アレフでは、密教だけでなく、
グルへの帰依が不可欠だと説いていますが、
ヨーガ根本経典においては、
――――――――――――――――――――――――――――――
佐保田鶴治著『ヨーガ根本経典』より
しかし、本物のグルに出会うということは今日まれな幸運ですが、
昔も事情は変わっていなかったと思います。
そこでグルに出会うことができない運命にある行者は絶望的かとい
そこに救いとなるのが、
自在神はグルのグルなのです。
――――――――――――――――――――――――――――――
そして、人を神やグルとしない実践を行う「ひかりの輪」では、
現在、修行として、三悟心経を実践していま
これは、すべての人の中に、「仏性」という仏に至る可能性、
大乗仏教の教えが入っています。
これは、修験道の修行を行うなかで「般若心経」
生まれたものですが、その内容は、
越えていくものでもあります。
「万物恩恵、万物感謝、
万物仏、万物尊重、
万物一体 万物愛す」
という短い経文を、意味を考えながら唱える修行なのですが、
「万物を恩恵と見て感謝する、
万物を仏と同等に平等に尊重する、
万物を一体と見て愛す」
という意味で、オウムの精神的問題を乗り越える内容でもあり、
「万物恩恵、万物感謝」は、
それを攻撃した、麻原・オウムの教義を乗り越えるものです。
「万物仏、万物尊重」は、麻原のみを仏の化身として絶対視し、
オウム以外の人々を軽蔑した傲慢な教義を乗り越えるものです。
「万物一体、万物愛す」は、自分たちと社会を強く区別し、
社会を敵視した麻原やオウムの教義を乗り越えるものです。
こうした、心の訓練を行うことが、
心を本当に豊かにしていく道だと考えて実践しています。
【アレフ修行の危険性④】アレフの密教修行の問題1 麻原を絶対とすることは間違っている
(2012-05-24 19:14:11 の記事)
少し前に、「現在のアレフの修行の重大な危険性」について、 以下の3まで述べましたが、
その続きの項目を載せていきたいと思います。
1 アレフの修行は、気づかないうちに、人を傲慢にする
2 アレフの修行は、人を妄想・現実逃避・精神病理に導く
3 アレフのヨーガの修行は、心身の健康を損ねる恐れがある
上記のように、現在、アレフで行われている「 アレフ的密教の修行」は、
心身の健康を、大きく損ねる恐れのあるものです。
それは、これまでオウム・ アレフを経験してきたわたしたちは身をもって知っています。
現に、麻原の高弟だった何人もやその子女が、精神を病み、 精神病院に入院したり、
廃人同然となってしまった事実があります。
特に、今回の項目では、そのなかでも、最も重大な問題のある、
「アレフの密教の修行の問題点」について、 詳しく述べたいと思います。
※特に、新しくアレフに入信した方にも、 アレフでは安易に提供されるその「アレフ的密教の修行」が、
いかに危険性のあるものかをお伝えすることで、 すぐにでもやめていただきたいと切に願っています。
4 アレフの密教修行の問題 ①麻原を絶対とすることは間違っている
アレフで行われている密教修行とは、 オウム行われていたのと同じように、
グルである麻原を絶対とし、麻原に対する絶対的な帰依・服従が、 タントラヴァジラヤーナという
密教の教えの実践だとするものです。
それが、最も速やかに麻原と同じ最終解脱の境地(※ 最終解脱という概念自体が間違っている
のですが、アレフはそう信じている) に至る修行だとして行われています。
それには、麻原の力により進歩するとする行法、 麻原への帰依を培う目的で行う礼拝や布施、奉仕、
マントラの念誦、密教的な瞑想の実践などがあります。
しかし、それらにはすべて、 心身の健康を大きく損ねる危険性があるのです。
まず第一に、そのアレフの修行の根幹である、グル・導師(麻原) を絶対とする教え自体が、
実はその「密教」の本場である、伝統密教から見れば過ちだ
という事実を、知識としてしっかり知らなければなりません。
この、麻原を絶対とする教えが、 オウム事件の一因になったことは周知の事実です。
事件後、わたしたちは、オウムの教えの問題を知るために、
チベットなどの伝統的な密教の教えを総合的に研究・ 検討してきたのですが、
その結果、確かに、密教の教えの中には、
「グルを完璧、絶対的と見る」 と解釈できるような教えが説かれているものの、
その教えに関するオウム・アレフの解釈は、 伝統的な密教の解釈と大きく違っており、
過ちであった、とはっきりわかりました。
具体的な違いは、以下の通りです。
チベット密教が説く教えでは、
① 「グルが絶対で完璧だ」という事実ではなく、あくまで、
弟子である自分のエゴを弱めるための修行法として、
そのように見なすことを意味しています。
② 密教的な帰依・実践をする前に、グル側だけでなく、
弟子となる側も、その土台として、 さまざまな条件を満たす必要があって、
自分が(特定の密教のグルに)帰依するべきかどうかについて、
慎重に適切に判断しなければならない、 という大きな責任があります。
というものでした。
この点について、チベット密教関係者の教えを以下に引用します。
■密教は、「グルが完璧である」 という客観的事実を主張しているのではないこと
◎カルマ・ゲレク・ユトク師 ダライ・ラマ日本代表部事務所の元代表
「法師(=グル)に欠点を見出すことなく、 完璧な存在として見るよう指示しているが、
これは(法師が完璧であるという)客観的事実とはほど遠く、
本来、弟子の主観的自我を清めることを意図したものである。」
(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のHPから引用)
■密教的な実践をする弟子には、 帰依すべきかどうかを判断する重大な責任があること
◎カルマ・ゲレク・ユトク師(前出)
「...ある人を自分の師とするにあたって、 慎重かつ注意深くやらなければなりません。
急がずに、十分に時間をかけて、法師の行動、
性質に常に注意をはらうことが、基本として挙げられます。
師の候補となる人についての情報を信頼する人から聞くこと、
関わりを持つ以前の彼のスピーチやダルマ説法を聞くこと、
彼の日常の生活や行動をきちんと吟味すれば、
これから自分の法師になろうとする者について知ることができます 。
...その条件を有する法師は、 学識かつ経験を積んだダルマを体得した人であること。
正直で平静かつ謙虚な者。
最高の真理を会得し、それに従って生きる者。
生きとし生けるものに溢れる慈悲の心を持つ者。
精神的な師としての務めに常に励む者。
...もう1つは、真の倫理を守っている者。
真の分別の知恵を守っている者。
真の利他主義を守っている者。
上記の条件に十分相当する師は、 この世でどんなに貧しい身分でも、
たぐいまれな精神的師と言えるのです。」
このように、伝統密教では、「グルが本当に完璧である、 絶対的である」と説いてはいません。
それは、「弟子のエゴを弱めるために、グルを完璧・ 絶対と見なす、考えるようにする修行法がある」
ということにすぎません。
しかし、アレフの場合は、「グルが完璧、絶対である」から、
信者はグルに犯罪行為を指示されたとき、 それに従わなければならない
と考えるケースがあり、現在、アレフでは、「麻原は絶対である」 と言い続け、
事件についても「深い考えがあってのこと」 などと正当化する発言があります。
しかし、これは、上記のような伝統的「密教」 の考え方に照らしても、完全に間違っています。
まず、麻原自体が、上記のような伝統的密教でいわれる「グル」 の条件に、
全く当てはまっていない事実を、受け入れなければなりません。
そして、麻原のなした無差別大量殺人というものについては、
人として、「殺人犯」であるのはもちろんのこと、
伝統的密教の説く「グル」としての行動からも、 完全に外れている過ちであり、
麻原は「グル」として、不的確であるという事実・ 現実を受け入れなければなりません。
オウムは、
あくまでも、 自分の心の中でグルを完璧と見るように努めるという、
伝統的密教の教えを踏み外し、
自分以外の第三者を巻き込んで、グルを絶対として第三者を殺す
というオウム事件を多数犯しました。
このような事件を、「グルは絶対だから」 と正当化しているアレフは、
伝統的密教の教えに照らしても、完全に過ちを犯しているのです。
そうでなければ、
自分の帰依の修行のためには第三者を犠牲にしてよい
ということになり、
弟子のエゴを弱めて解脱に至ろうとする修行であるどころか、
逆に、あまりに自己中心的な、 エゴイスティックで傲慢極まりない行動、
そして実際に行えば犯罪、ということにしかなりません。
事件当時のオウムは、このように「グルへの帰依」 という名の下に、
自分たちでは気づかないうちに、エゴ、 煩悩をこの上なく増大させてしまっていました。
その過ちを、アレフの「麻原を絶対とする」修行は、 犯し続けているのです。
アレフ信者が、グルを絶対・完璧であると考えるなら、
それは同時に、その瞬間から、自分たち自身を、
「 グルの指示があればこの世の中で殺人を含めて何をしてもいい存在 」
にしてしまうことでもあり、
これはアレフ信者自身を絶対化してしまうことになると思います。
また、伝統密教では、密教の教えを実践する場合に、
そのグルだけではなく、弟子となる側にも、 正しいグルを選ばなければならない
という重大な責任があると説かれています。
しかし、「この弟子側の責任」という考え方については、
オウムでは全く言われず、オウムの信者は、 こういった責任を全く果たさずに、
密教の教えの実践を行ってしまうという過ちを犯しました。
新しくアレフに入信し、麻原を「グル」としている方は、
まずはこのことをしっかりと考えていただきたいと心より思います 。
少し前に、「現在のアレフの修行の重大な危険性」について、
その続きの項目を載せていきたいと思います。
1 アレフの修行は、気づかないうちに、人を傲慢にする
2 アレフの修行は、人を妄想・現実逃避・精神病理に導く
3 アレフのヨーガの修行は、心身の健康を損ねる恐れがある
上記のように、現在、アレフで行われている「
心身の健康を、大きく損ねる恐れのあるものです。
それは、これまでオウム・
現に、麻原の高弟だった何人もやその子女が、精神を病み、
廃人同然となってしまった事実があります。
特に、今回の項目では、そのなかでも、最も重大な問題のある、
「アレフの密教の修行の問題点」について、
※特に、新しくアレフに入信した方にも、
いかに危険性のあるものかをお伝えすることで、
4 アレフの密教修行の問題 ①麻原を絶対とすることは間違っている
アレフで行われている密教修行とは、
グルである麻原を絶対とし、麻原に対する絶対的な帰依・服従が、
密教の教えの実践だとするものです。
それが、最も速やかに麻原と同じ最終解脱の境地(※
のですが、アレフはそう信じている)
それには、麻原の力により進歩するとする行法、
マントラの念誦、密教的な瞑想の実践などがあります。
しかし、それらにはすべて、
まず第一に、そのアレフの修行の根幹である、グル・導師(麻原)
実はその「密教」の本場である、伝統密教から見れば過ちだ
という事実を、知識としてしっかり知らなければなりません。
この、麻原を絶対とする教えが、
事件後、わたしたちは、オウムの教えの問題を知るために、
チベットなどの伝統的な密教の教えを総合的に研究・
その結果、確かに、密教の教えの中には、
「グルを完璧、絶対的と見る」
その教えに関するオウム・アレフの解釈は、
過ちであった、とはっきりわかりました。
具体的な違いは、以下の通りです。
チベット密教が説く教えでは、
① 「グルが絶対で完璧だ」という事実ではなく、あくまで、
弟子である自分のエゴを弱めるための修行法として、
そのように見なすことを意味しています。
② 密教的な帰依・実践をする前に、グル側だけでなく、
弟子となる側も、その土台として、
自分が(特定の密教のグルに)帰依するべきかどうかについて、
慎重に適切に判断しなければならない、
というものでした。
この点について、チベット密教関係者の教えを以下に引用します。
■密教は、「グルが完璧である」
◎カルマ・ゲレク・ユトク師 ダライ・ラマ日本代表部事務所の元代表
「法師(=グル)に欠点を見出すことなく、
これは(法師が完璧であるという)客観的事実とはほど遠く、
本来、弟子の主観的自我を清めることを意図したものである。」
(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のHPから引用)
■密教的な実践をする弟子には、
◎カルマ・ゲレク・ユトク師(前出)
「...ある人を自分の師とするにあたって、
急がずに、十分に時間をかけて、法師の行動、
性質に常に注意をはらうことが、基本として挙げられます。
師の候補となる人についての情報を信頼する人から聞くこと、
関わりを持つ以前の彼のスピーチやダルマ説法を聞くこと、
彼の日常の生活や行動をきちんと吟味すれば、
これから自分の法師になろうとする者について知ることができます
...その条件を有する法師は、
正直で平静かつ謙虚な者。
最高の真理を会得し、それに従って生きる者。
生きとし生けるものに溢れる慈悲の心を持つ者。
精神的な師としての務めに常に励む者。
...もう1つは、真の倫理を守っている者。
真の分別の知恵を守っている者。
真の利他主義を守っている者。
上記の条件に十分相当する師は、
たぐいまれな精神的師と言えるのです。」
このように、伝統密教では、「グルが本当に完璧である、
それは、「弟子のエゴを弱めるために、グルを完璧・
ということにすぎません。
しかし、アレフの場合は、「グルが完璧、絶対である」から、
信者はグルに犯罪行為を指示されたとき、
と考えるケースがあり、現在、アレフでは、「麻原は絶対である」
事件についても「深い考えがあってのこと」
しかし、これは、上記のような伝統的「密教」
まず、麻原自体が、上記のような伝統的密教でいわれる「グル」
全く当てはまっていない事実を、受け入れなければなりません。
そして、麻原のなした無差別大量殺人というものについては、
人として、「殺人犯」であるのはもちろんのこと、
伝統的密教の説く「グル」としての行動からも、
麻原は「グル」として、不的確であるという事実・
オウムは、
あくまでも、
伝統的密教の教えを踏み外し、
自分以外の第三者を巻き込んで、グルを絶対として第三者を殺す
というオウム事件を多数犯しました。
このような事件を、「グルは絶対だから」
伝統的密教の教えに照らしても、完全に過ちを犯しているのです。
そうでなければ、
自分の帰依の修行のためには第三者を犠牲にしてよい
ということになり、
弟子のエゴを弱めて解脱に至ろうとする修行であるどころか、
逆に、あまりに自己中心的な、
そして実際に行えば犯罪、ということにしかなりません。
事件当時のオウムは、このように「グルへの帰依」
自分たちでは気づかないうちに、エゴ、
その過ちを、アレフの「麻原を絶対とする」修行は、
アレフ信者が、グルを絶対・完璧であると考えるなら、
それは同時に、その瞬間から、自分たち自身を、
「
にしてしまうことでもあり、
これはアレフ信者自身を絶対化してしまうことになると思います。
また、伝統密教では、密教の教えを実践する場合に、
そのグルだけではなく、弟子となる側にも、
という重大な責任があると説かれています。
しかし、「この弟子側の責任」という考え方については、
オウムでは全く言われず、オウムの信者は、
密教の教えの実践を行ってしまうという過ちを犯しました。
新しくアレフに入信し、麻原を「グル」としている方は、
まずはこのことをしっかりと考えていただきたいと心より思います
【アレフの修行の危険性③】 アレフのヨーガの修行は、心身の健康を損ねる恐れがある
(2012-04-25 23:51:02 の記事)
アレフのヨーガ行法は、
① 一般に出版されているヨーガの根本経典などから、 麻原が我流で学んだものや、
②今から25年ほど前に、麻原がヒマラヤのヨーガのグル( パイロット・ババ師等)から習ったもの( 例えばアパンクリアと呼ばれる行法など)
を使っています。
しかし、これには、たいへん重大な問題や危険性がありますので、
以下に記したいと思います。
麻原は、1986年1月にインドを訪問し、各地でパイロット・ ババ師等の「聖者」
といわれる人物と会い、 日本救済の使命を託されたと誇大宣伝していますが、
じつは、これは単なる麻原の主張であり、事実ではありません。
今では、調査によって、パイロット・ ババ師は1986年の時点から、
麻原の行動に批判的であったということがわかっています。
以下に記す、パイロットババ師と麻原の事実にいては、
ひかりの輪を設立する直前からの、 オウム時代の反省と総括のための
調査・研究の中で、そのパイロットババ師から確認した内容です。
正統ではない使い方をしている
パイロット・ババ師によれば、師が来日した際に、
麻原が、 自分が教えた行法を高額の布施を取って教えているのを見つけ、
「そのままでは破滅に至る」
と、やめるように警告したが、麻原はやめなかった
という問題が起こったということです。
そしてその結果、2人は決裂することになった
という事情があることがわかりました。
(師によると、その問題のために、 彼の神のエネルギーラインを切ったそうです)
そして、実際に、麻原・オウムは、 一連の事件のような破滅に至っています。
慢心をもたらす使い方をしている
また、パイロットババ師によれば、 オウムのような激しいヒマラヤヨーガ行法は、
その身体行法によって、
一時的にピュアな浄化された状態になって、
超常的な瞑想体験をすることがあるが、
それで「解脱した」と錯覚し、 修行者が慢心を抱くという問題がある
とのことです。
そのため、 ある種の行法を安易に教えることは不適切な場合もあるとのことで 、
重要なことは、サマディ自体ではなく、 その後の人格の向上だということです。
これはまさに、 激しいヨーガ行法などによる劇的な神秘体験を強調する、
オウム・アレフによく当てはまる問題です。
オウム・アレフは、その激しい修行によって、 神秘体験自体はするのですが、
その一方、一連の事件に至ったことからもわかるように、
本当の心の成熟、悟り、解脱には至りません。
また、パイロットババ師は、 当の麻原自身が慢心に陥っていたことについて、
以下のように指摘しています。
① 40日間の修行を麻原に指示したものの、麻原は、 三女の病気を理由に
途中でそれを抜け出したため、修行が途中で止まってしまった。
② 当時の麻原は、行者として優れた面はあったが、
「私が救済する」と主張していた。
この「私が救済する」という考え方は、(プライドなどの) エゴである。
周りに、プライドや権力欲の強い人が集まってきて、周りの人も、
麻原に悪い影響を与えたのではないか。
③ 麻原は、アナハタチャクラ( ヨーガで胸に位置する霊的なセンターのこと、
プライド等の煩悩が関係する)のレベルで引っかかってしまった。
(修行が止まった)
アナハタチァクラでは、超能力が付くが、 それに引っかかったのは残念。
そこを超えていくか、そこで魔にとりつかれるか、 という分岐点であった。
④ さらに、当時の高弟によれば、1990年代に入って、
オウムが日本のマスコミから批判された時も、パイロット・ ババ師は、
麻原の現世的な執着を諫める内容の手紙を送ってきた
という事実がありました。
このように、こうした麻原の慢心は、 その後の数々の犯罪の背景にあったもの
です。その意味でも、本来、修行は、 一時的な霊的体験や超能力ではなく、
慢心・ プライドを含めた自我意識を滅した人格の向上こそが重要だったも のの、その点を大きく踏み外し、道を誤ったといえます。
アレフで行っているグルイズムは、 正統なヨーガでは否定されている
パイロットババ師は、以下のようにも語っています。
① 修行者は、セルフ(ヨーガで言う本当の自分=真我のこと) に帰るべき
であり、グルは導き手にすぎない。
② 信者の人たちは、麻原の奴隷になってはいけない。
心身に負担がかかる
さらに、オウム・アレフが行っている激しいヨーガの行法は、
自ら「狂気の集中修行」と呼んでいたことがあったように、
過度な負担が、心身にかかる過激なものです。
そして、そのような集中修行の際には、 かなり荒っぽいものがあり、
一部ではありますが、精神疾患が発生した事例があります。
ほかにも、極限的な身体の酷使や無理な姿勢の継続等により、
身体を痛めた事例も多々あります。
詳しく説明すると、以下のようなものといえます。
①激しいヨーガ行法の危険性
いきなり激しいヨーガ行法を行うと、身体に負担がかかり、
身体を損なう恐れが高まります。
これは、海やプールに入るのに準備運動もなく、
また、 徐々に水を心臓の遠いところからかけていくという段階を踏まず、
いきなり水に飛び込むということと同じです。
また、いきなり100メートルを全力疾走することと同じです。
そうすれば、身体にたいへん負担をかけ、
悪くすれば心臓麻痺などを引き起こすことにもなります。
ヨーガの激しい呼吸法をいきなりやれば、 血流が急激に激しくなり、
心臓にも負担がかかります。
そうして、息を、苦しくなっても止め続けることを行えば、
他の器官にも相当な負担がかかります。
身体のエネルギー的側面から考えても、同様のことが言えます。
ヨーガを行うことはエネルギーの動きを活発にすることです。
身体にはエネルギーの滞っているところがあり、
その部分にいきなり強いエネルギーを流せば、
当然、細い通路に大量の水が通ろうとするようなものであり、
強い圧力がかかります。それは身体に痛みを与え、 身体を損ねます。
以上のようなことから、身体に必要以上の負担をかけ、
身体を損ねる危険性があります。
② 心理面、精神面に対する危険な影響
私たちの意識は、身体操作(行法)を行うと、 潜在意識に入っていきます。
これは本人が自覚・認識しようが、 しまいがそういうものといえます。
いきなり激しい身体操作を行えば、急激に、潜在意識状態になり、
少しずつ潜在意識に入っていく場合と違い、
心のコントロールがしにくい状態になります。
潜在意識にはさまざまな要素があります。
表面の意識と違い、理性的、社会的、常識が働きにくいため
欲求がストレートに出てしまいます。
お酒を飲んで酔っ払ったときのことと似ていると思います。
酔っ払えば酔っ払うほど、抑制、 コントロールはきかなくなります。
そして、急激にそのような意識状態になると、
余計に、 コントロールしにくくなるということも想像がつくと思います。
簡単な言葉で言えば、「わけがわからなくなる」 といったらいいかもしれません。
それは、寝ていたときに急に起こされて、
自分がどこにいて何をしているのかわけがわからないという経験が
どなたでもあると思いますが、そのときと同様のことです。
このような状態は一時的に潜在意識と表層の意識の分離をもたらし ます。
それが、一時的なものいならいいのですが、
それをきっかけに精神病的な様相を呈する場合もあります。
そして、エネルギーの急激な活発化と、
それにともなう急激な潜在意識状態になることによって、
いわゆる神秘体験が起こりやすくなります。
オウム・アレフの場合、 神秘体験を異常に重視するということから、
このような無理な、危険性・ 問題のある行法が行われているのだと思います。
ひかりの輪のヨーガ行法の改善
以上のようなことから、身体行法を行ううえでは、 準備段階を経て、
徐々に身体や意識を慣らしていくことが必要になってきます。
そこで、ひかりの輪では、 上記のようなオウムの修行のやり方の危険性
への反省をもとに、なるべく心身の負担が少なく、
心の寂静・安定を中心とした、本質的な効果が出るように、
改めて最新のヒマラヤヨーガを学んで、 自分たちなりの工夫を加え、
それを導入しています。
ひかりの輪では、あまりに激しい行法をやって、
一気に深い意識に入るというやり方をとらず、
極限を超えて体を酷使するような修行は行いません。
それに代わって、十分な準備段階を経てから、
ヨーガなり気功の本格的な動きに入るやり方を行っています。
また、 上記のような危険を回避する準備段階以外の方法も取り入れていま す。
ひかりの輪ではいくつかの行法があり、 そのどれもが準備段階を行いますが、
なかでも「エンライトメント・ヨーガ」 という呼称をつけた行法は、
それが顕著ですので、エンライトメント・ ヨーガをもとに簡単にお伝えします。
まず、身体の末端、足や手の指先からほぐしていきます。
主に、間接を順番にほぐしていきます。
関節は気(エネルギー)の流れが滞りやすいところですから、
まずはそこを、体の末端から順にほぐし、 エネルギーの通りをよくすることを
行います。
これは関節を曲げたり伸ばしたり、 回したりといった簡単な動作です。
さらに、筋を伸ばすことも簡単な動作で行います。
これらは高齢の方でも行えるものです(実際に、70数歳の方が
毎日エンライトメント・ ヨーガをやっているという事実があります。
このことからもこの行法が身体に負担をかけずにできることを表し ています)。
このように、全身をほぐして気の通りをよくして、 少しずつ気を循環させていき、
身体を慣らしてからヨガの行法(身体操作)に入っていきます。
また、ヨーガの身体に負担をかけやすい呼吸法などは、
手順を分解しておこなうことによって、 その効果を低下させることなく、
負担なく行えるようにしています。
準備体操的なものの他に、上記の行法をやっている間に、
心を静めコントロールしやすい状態にするために、
身体の動きや感覚に、「気づき」 をもって行う方法を取り入れています。
これは仏教の瞑想の「止観(シャマタ・ヴィッパサナー)」 にあたります。
このことは、オウムのエネルギー重視のヨーガ行法と違い、
心、意識を重視するやり方です。
このようなやり方は、潜在意識に徐々に入っていくことになり、
それが止観の瞑想とあいまって、潜在意識の要素に翻弄されず、
静かな落ち着いた心の状態を作り出すことになります。
このように、ひかりの輪の行法は、 オウムの行法の問題点を反省すること
から形作られてきましたので、 安心して行えるものとなっています。
アレフのヨーガ行法は、
① 一般に出版されているヨーガの根本経典などから、
②今から25年ほど前に、麻原がヒマラヤのヨーガのグル(
を使っています。
しかし、これには、たいへん重大な問題や危険性がありますので、
以下に記したいと思います。
麻原は、1986年1月にインドを訪問し、各地でパイロット・
といわれる人物と会い、
じつは、これは単なる麻原の主張であり、事実ではありません。
今では、調査によって、パイロット・
麻原の行動に批判的であったということがわかっています。
以下に記す、パイロットババ師と麻原の事実にいては、
ひかりの輪を設立する直前からの、
調査・研究の中で、そのパイロットババ師から確認した内容です。
パイロット・ババ師によれば、師が来日した際に、
麻原が、
「そのままでは破滅に至る」
と、やめるように警告したが、麻原はやめなかった
という問題が起こったということです。
そしてその結果、2人は決裂することになった
という事情があることがわかりました。
(師によると、その問題のために、
そして、実際に、麻原・オウムは、
また、パイロットババ師によれば、
その身体行法によって、
一時的にピュアな浄化された状態になって、
超常的な瞑想体験をすることがあるが、
それで「解脱した」と錯覚し、
とのことです。
そのため、
重要なことは、サマディ自体ではなく、
これはまさに、
オウム・アレフによく当てはまる問題です。
オウム・アレフは、その激しい修行によって、
その一方、一連の事件に至ったことからもわかるように、
本当の心の成熟、悟り、解脱には至りません。
また、パイロットババ師は、
以下のように指摘しています。
① 40日間の修行を麻原に指示したものの、麻原は、
途中でそれを抜け出したため、修行が途中で止まってしまった。
② 当時の麻原は、行者として優れた面はあったが、
「私が救済する」と主張していた。
この「私が救済する」という考え方は、(プライドなどの)
周りに、プライドや権力欲の強い人が集まってきて、周りの人も、
麻原に悪い影響を与えたのではないか。
③ 麻原は、アナハタチャクラ(
プライド等の煩悩が関係する)のレベルで引っかかってしまった。
(修行が止まった)
アナハタチァクラでは、超能力が付くが、
そこを超えていくか、そこで魔にとりつかれるか、
④ さらに、当時の高弟によれば、1990年代に入って、
オウムが日本のマスコミから批判された時も、パイロット・
麻原の現世的な執着を諫める内容の手紙を送ってきた
という事実がありました。
このように、こうした麻原の慢心は、
です。その意味でも、本来、修行は、
慢心・
パイロットババ師は、以下のようにも語っています。
① 修行者は、セルフ(ヨーガで言う本当の自分=真我のこと)
であり、グルは導き手にすぎない。
② 信者の人たちは、麻原の奴隷になってはいけない。
さらに、オウム・アレフが行っている激しいヨーガの行法は、
自ら「狂気の集中修行」と呼んでいたことがあったように、
過度な負担が、心身にかかる過激なものです。
そして、そのような集中修行の際には、
一部ではありますが、精神疾患が発生した事例があります。
ほかにも、極限的な身体の酷使や無理な姿勢の継続等により、
身体を痛めた事例も多々あります。
詳しく説明すると、以下のようなものといえます。
①激しいヨーガ行法の危険性
いきなり激しいヨーガ行法を行うと、身体に負担がかかり、
身体を損なう恐れが高まります。
これは、海やプールに入るのに準備運動もなく、
また、
いきなり水に飛び込むということと同じです。
また、いきなり100メートルを全力疾走することと同じです。
そうすれば、身体にたいへん負担をかけ、
悪くすれば心臓麻痺などを引き起こすことにもなります。
ヨーガの激しい呼吸法をいきなりやれば、
心臓にも負担がかかります。
そうして、息を、苦しくなっても止め続けることを行えば、
他の器官にも相当な負担がかかります。
身体のエネルギー的側面から考えても、同様のことが言えます。
ヨーガを行うことはエネルギーの動きを活発にすることです。
身体にはエネルギーの滞っているところがあり、
その部分にいきなり強いエネルギーを流せば、
当然、細い通路に大量の水が通ろうとするようなものであり、
強い圧力がかかります。それは身体に痛みを与え、
以上のようなことから、身体に必要以上の負担をかけ、
身体を損ねる危険性があります。
② 心理面、精神面に対する危険な影響
私たちの意識は、身体操作(行法)を行うと、
これは本人が自覚・認識しようが、
いきなり激しい身体操作を行えば、急激に、潜在意識状態になり、
少しずつ潜在意識に入っていく場合と違い、
心のコントロールがしにくい状態になります。
潜在意識にはさまざまな要素があります。
表面の意識と違い、理性的、社会的、常識が働きにくいため
欲求がストレートに出てしまいます。
お酒を飲んで酔っ払ったときのことと似ていると思います。
酔っ払えば酔っ払うほど、抑制、
そして、急激にそのような意識状態になると、
余計に、
簡単な言葉で言えば、「わけがわからなくなる」
それは、寝ていたときに急に起こされて、
自分がどこにいて何をしているのかわけがわからないという経験が
どなたでもあると思いますが、そのときと同様のことです。
このような状態は一時的に潜在意識と表層の意識の分離をもたらし
それが、一時的なものいならいいのですが、
それをきっかけに精神病的な様相を呈する場合もあります。
そして、エネルギーの急激な活発化と、
それにともなう急激な潜在意識状態になることによって、
いわゆる神秘体験が起こりやすくなります。
オウム・アレフの場合、
このような無理な、危険性・
以上のようなことから、身体行法を行ううえでは、
徐々に身体や意識を慣らしていくことが必要になってきます。
そこで、ひかりの輪では、
への反省をもとに、なるべく心身の負担が少なく、
心の寂静・安定を中心とした、本質的な効果が出るように、
改めて最新のヒマラヤヨーガを学んで、
それを導入しています。
ひかりの輪では、あまりに激しい行法をやって、
一気に深い意識に入るというやり方をとらず、
極限を超えて体を酷使するような修行は行いません。
それに代わって、十分な準備段階を経てから、
ヨーガなり気功の本格的な動きに入るやり方を行っています。
また、
ひかりの輪ではいくつかの行法があり、
なかでも「エンライトメント・ヨーガ」
それが顕著ですので、エンライトメント・
まず、身体の末端、足や手の指先からほぐしていきます。
主に、間接を順番にほぐしていきます。
関節は気(エネルギー)の流れが滞りやすいところですから、
まずはそこを、体の末端から順にほぐし、
行います。
これは関節を曲げたり伸ばしたり、
さらに、筋を伸ばすことも簡単な動作で行います。
これらは高齢の方でも行えるものです(実際に、70数歳の方が
毎日エンライトメント・
このことからもこの行法が身体に負担をかけずにできることを表し
このように、全身をほぐして気の通りをよくして、
身体を慣らしてからヨガの行法(身体操作)に入っていきます。
また、ヨーガの身体に負担をかけやすい呼吸法などは、
手順を分解しておこなうことによって、
負担なく行えるようにしています。
準備体操的なものの他に、上記の行法をやっている間に、
心を静めコントロールしやすい状態にするために、
身体の動きや感覚に、「気づき」
これは仏教の瞑想の「止観(シャマタ・ヴィッパサナー)」
このことは、オウムのエネルギー重視のヨーガ行法と違い、
心、意識を重視するやり方です。
このようなやり方は、潜在意識に徐々に入っていくことになり、
それが止観の瞑想とあいまって、潜在意識の要素に翻弄されず、
静かな落ち着いた心の状態を作り出すことになります。
このように、ひかりの輪の行法は、
から形作られてきましたので、
【アレフの修行の危険性②】 アレフの修行は、人を妄想・現実逃避・精神病理に導く
(2012-04-21 22:58:25 の記事)
前回お伝えしたように、
アレフの修行は、気付かないうちに、人を傲慢にしていきますが、
それと同時に、人を妄想・現実逃避・ 精神病理に導くという危険性が
あります。
そうなってしまう課程を順に記します。
(1) 陰謀論の妄説
アレフは、 人を傲慢にしてしまうような教化の仕方をするとともに、 その過程で、
「一連のオウム真理教の事件は陰謀である」
という妄説を説きます。
また、その説の説得力を高めるために、
当時に、世の中で流行している他の事件の陰謀説などを、
十分な検証もせずに紹介していきます。
(2) 妄想の社会観へ至り、悟りと正反対の無智に至る
その結果、
「オウム事件が陰謀であり、
社会は教団を弾圧している」という妄説を含め、
社会に対する多くの妄想をいだく精神状態になります。
(この世は、国家やユダヤ・フリーメーソンがなどが、 沢山の陰謀を図って
いるといったようなもの。ヒトラーが主張したような内容)。
こうして、事実・真実と正反対の社会観が形成されてしまうと、
実際は、「現実」を正しく理解できなくなり、
悟りや解脱どころか、 その正反対の無智の状態になっていきますが、
当の本人たちは、
「自分たちは、一般の人よりも、
悟り・解脱・現象を、ありのままに見る智慧が増大した」
と思い込む精神状態になっています。
アレフが陰謀論などで社会の問題を指摘するように、
もちろん、この社会では、すべての人が聖人君子なのではなく、
人々の欲望・煩悩による不正・過ちが起きることもあり、
社会の指導層・支配層にも、 さまざまな問題はあるというのは事実ですが、
だからといって、
明々白々オウム真理教・麻原の犯罪であるオウム事件について、
「オウム事件は陰謀」だとするアレフの社会観は、
あまりに非現実的・架空のものであると言わざるをえません。
(3) 社会に対する被害妄想へ至り、精神が不安定になる
その妄想の中には、
「自分たちがアレフ信者として、社会に弾圧されているのだ」
という被害妄想を含んでいます。
実際には、当然のことながら、
一連の事件を起こした、アレフのほうが加害者であり、
その事件の被害者が確かに現実に、 存在しているのにもかかわらず、
アレフは、その現実の事実を認めずに、
陰謀論を喧伝し、
賠償契約を避け、
被害者を苦しめ続けていることを行っているがために、
依然として社会に批判されているのです。
それにもかかわらず、こうした社会の批判を、
「弾圧だ」
と被害妄想的に思い込むために、
善悪の基準が、全く逆転・正反対となってしまうのです。
また、自分たちが、こうした被害妄想に陥っているという
自分たちの罪・ 間違いによって批判されていることを理解できずに、
外部社会その他に対して、過剰な不安
(悪魔・フリーメーソンが自分たちを潰そうとしているといった) に陥り、
精神不安定になる場合があります。
(特に具体的な法律問題その他で摘発されるような場合に、
そういった状態に陥りやすい)
(4) 誇大妄想と被害妄想がセット
また、この被害妄想の裏側には、
「自分たちが弾圧されるのは、教祖麻原がキリストであり、
自分たちが特別な存在だからだ」
という誇大妄想もセットになっています。
実際には、彼らは一つの小教団にすぎず、
自分たち自身の問題で批判されているにすぎません。
しかし、それを、
「自分たちが特別な存在であるから弾圧されている」
と、認識してしまうのは、
誇大妄想と被害妄想の心理状態がセットになって生じている
ことを示しています。
(5) 現実逃避・精神病理
また、この誇大妄想と被害妄想がセットになった心理状態は、
その背景に、信者が気づかないうちに、
「自分たちが信じたもの、巡り会ったものは、正しいと思いたい」
という強い欲求・自己愛・甘えの欲望が潜んでいます。
ですので、この誇大妄想と被害妄想の心理状態は、
自己愛・甘えによって、
自分を客観的に見ることから逃げている状態であり、
まさに現実逃避といえます。
このようにして、アレフでは、
妄想と現実逃避に至るという、 まさに精神病理の人格が形成されてしまう
と言わざるを得ないのです。
(6)幹部たちの精神的な問題
なお、彼らの一部には、
「陰謀だ」と本当に信じている人がいるかもしれませんが、
教団を裏から支配する麻原の家族である松本家の妻子たちや、
教団内最高位である二ノ宮耕一は、
事件は陰謀などではないことを嫌というほど知っています。
また、ほとんどのアレフの出家信者も、
上祐代表がアレフで代表だった際に(2000~2003)、
教団が事件に関与したことについて、事件年表などを配付され、
詳細な説明を受けています。
よって、現在のアレフが陰謀説を説いているのは、
入会を促進するための詐欺的な手段にほかなりません。
そして、それは、彼らが絶対視する麻原とその教団の真理に導くた めに、
「結果のためには手段を選ばない実践」
として行っているのです。
これが、 一連のオウム事件に結びついたヴァジラヤーナ思想でもあるのです 。
そういったことをする背景には、幹部は幹部のレベルで、
「自分たちが信じたものは正しいと思いたい」
という自己愛や甘えに基づく虚栄心、
言い換えると、麻原への依存= 麻原から自立するという本当の努力の回避や、
それとともに、「陰謀論で洗脳することが、 信者獲得のために都合が良い」
という実利も存在します。
このように、彼らの自己愛や甘えに基づいて、
自己正当化の虚栄心と信者獲得の欲得の二つの欲望が
絡んで、そのように行っているといえます。
前回お伝えしたように、
アレフの修行は、気付かないうちに、人を傲慢にしていきますが、
それと同時に、人を妄想・現実逃避・
あります。
そうなってしまう課程を順に記します。
(1) 陰謀論の妄説
アレフは、
「一連のオウム真理教の事件は陰謀である」
という妄説を説きます。
また、その説の説得力を高めるために、
当時に、世の中で流行している他の事件の陰謀説などを、
十分な検証もせずに紹介していきます。
>>アレフの洗脳教化のパターン③ 陰謀論の植え付け
>>アレフ洗脳教化のパターン④ 「オウム事件は何者かの陰謀」と言い、入信させる
(2) 妄想の社会観へ至り、悟りと正反対の無智に至る
その結果、
「オウム事件が陰謀であり、
社会は教団を弾圧している」という妄説を含め、
社会に対する多くの妄想をいだく精神状態になります。
(この世は、国家やユダヤ・フリーメーソンがなどが、
いるといったようなもの。ヒトラーが主張したような内容)。
こうして、事実・真実と正反対の社会観が形成されてしまうと、
実際は、「現実」を正しく理解できなくなり、
悟りや解脱どころか、
当の本人たちは、
「自分たちは、一般の人よりも、
悟り・解脱・現象を、ありのままに見る智慧が増大した」
と思い込む精神状態になっています。
アレフが陰謀論などで社会の問題を指摘するように、
もちろん、この社会では、すべての人が聖人君子なのではなく、
人々の欲望・煩悩による不正・過ちが起きることもあり、
社会の指導層・支配層にも、
だからといって、
明々白々オウム真理教・麻原の犯罪であるオウム事件について、
「オウム事件は陰謀」だとするアレフの社会観は、
あまりに非現実的・架空のものであると言わざるをえません。
(3) 社会に対する被害妄想へ至り、精神が不安定になる
その妄想の中には、
「自分たちがアレフ信者として、社会に弾圧されているのだ」
という被害妄想を含んでいます。
実際には、当然のことながら、
一連の事件を起こした、アレフのほうが加害者であり、
その事件の被害者が確かに現実に、
アレフは、その現実の事実を認めずに、
陰謀論を喧伝し、
賠償契約を避け、
被害者を苦しめ続けていることを行っているがために、
依然として社会に批判されているのです。
それにもかかわらず、こうした社会の批判を、
「弾圧だ」
と被害妄想的に思い込むために、
善悪の基準が、全く逆転・正反対となってしまうのです。
また、自分たちが、こうした被害妄想に陥っているという
自分たちの罪・
外部社会その他に対して、過剰な不安
(悪魔・フリーメーソンが自分たちを潰そうとしているといった)
精神不安定になる場合があります。
(特に具体的な法律問題その他で摘発されるような場合に、
そういった状態に陥りやすい)
(4) 誇大妄想と被害妄想がセット
また、この被害妄想の裏側には、
「自分たちが弾圧されるのは、教祖麻原がキリストであり、
自分たちが特別な存在だからだ」
という誇大妄想もセットになっています。
実際には、彼らは一つの小教団にすぎず、
自分たち自身の問題で批判されているにすぎません。
しかし、それを、
「自分たちが特別な存在であるから弾圧されている」
と、認識してしまうのは、
誇大妄想と被害妄想の心理状態がセットになって生じている
ことを示しています。
(5) 現実逃避・精神病理
また、この誇大妄想と被害妄想がセットになった心理状態は、
その背景に、信者が気づかないうちに、
「自分たちが信じたもの、巡り会ったものは、正しいと思いたい」
という強い欲求・自己愛・甘えの欲望が潜んでいます。
ですので、この誇大妄想と被害妄想の心理状態は、
自己愛・甘えによって、
自分を客観的に見ることから逃げている状態であり、
まさに現実逃避といえます。
このようにして、アレフでは、
妄想と現実逃避に至るという、
と言わざるを得ないのです。
(6)幹部たちの精神的な問題
なお、彼らの一部には、
「陰謀だ」と本当に信じている人がいるかもしれませんが、
教団を裏から支配する麻原の家族である松本家の妻子たちや、
教団内最高位である二ノ宮耕一は、
事件は陰謀などではないことを嫌というほど知っています。
また、ほとんどのアレフの出家信者も、
上祐代表がアレフで代表だった際に(2000~2003)、
教団が事件に関与したことについて、事件年表などを配付され、
詳細な説明を受けています。
よって、現在のアレフが陰謀説を説いているのは、
入会を促進するための詐欺的な手段にほかなりません。
そして、それは、彼らが絶対視する麻原とその教団の真理に導くた
「結果のためには手段を選ばない実践」
として行っているのです。
これが、
そういったことをする背景には、幹部は幹部のレベルで、
「自分たちが信じたものは正しいと思いたい」
という自己愛や甘えに基づく虚栄心、
言い換えると、麻原への依存=
それとともに、「陰謀論で洗脳することが、
という実利も存在します。
このように、彼らの自己愛や甘えに基づいて、
自己正当化の虚栄心と信者獲得の欲得の二つの欲望が
絡んで、そのように行っているといえます。
【アレフの修行の危険性①】アレフの修行は、気づかないうちに人を傲慢にする
(2012-04-20 22:05:04 の記事)
アレフの修行は、気付かないうちに、人を傲慢にしていきます。気付かないうちに、そうなってしまうということが、
人がだれしも心の中に持っている、
アレフには、人の、虚栄心、自尊心などをくすぐる、パターン化された勧誘方法があります。
これは、オウム真理教時代のやり方を引き継いでおり、
以下に、知らず知らずのうちに、
(1) 称賛による虚栄心の増大
まず、アレフは、その勧誘において、自分たちと出会った人を、
「真理に巡り会った徳の高い魂」
などと称賛し、一般の人に比べて、
「優れた存在・選ばれた存在」
とすることで、虚栄心を満たす方向に誘導します。
勧誘された人は、当初は、覆面ヨガ教室などで、アレフだとわからないこともあって、それに喜んでいるうちに、次第に引き込まれていってしまいます。
◆その実例①(アレフを脱会した20代男性・東京 体験談より)
入会以前の勉強会から、ことあるごとに言われてきました。
「真理に巡り合えたのは奇跡」
「自分の偉大なる功徳に感謝」
「地球ほどの砂漠の一粒の砂ほどの確率」などなど、
その素晴らしさを称えることが本当に多くありました。
◆その実例②(アレフを脱会した20代男性・東京 体験談より)
(書店で勧誘を受けたKさんから)
う誘われ続けましたが、私は行く気にはなりませんでした。
するとKさんは、私に対して、
「これは君のために重要な機会」
「今、ヨーガ教室に行く機会を逃せば、
「これは、かけがえのない教えだよ」
等と述べて、繰り返し説得をしてきました
「とにかくやればわかるから」
「せっかく麻原尊師と縁があるのだから縁を深めましょう」
等と言われ、立位礼拝の修行をさせられたのです。
◆その実例②(宗形真紀子『二十歳からの20年間』(三五館)
(麻原との初対面の後)弟子の一人に相談すると、
「グルと会ったから、気が上がって喉の浄化が起きたんですよ。
しかし、初対面で直後にそうなるということはグルと縁が深いので
すね」と言われました。
そして、麻原との面談で個別に伝授されたマントラについて、
「これは特に縁が深い人に与えられるマントラなんですよ。
あなたはグルと特に縁が深いのですね」
単純にもすっかりその気になってしまったのでした。
これが、オウムが多くの信者を集めた勧誘のパターンなのです。
このパターンでは、自殺も考えたほど悩み、
わたしが、そのひと言で一瞬にして教祖と縁の深い特別な、
される存在となります。
これは、オウム・麻原の悪魔的魅力とも言えるもので、麻原には、
手のプライド・自尊心・虚栄心を満たすことで、
という特徴があり、それがたいへん巧みでうまかったのです。
この麻原と初めて会った後に感じたわたしの、
のちに特別な教祖と縁の深い自分は特別な存在だ、
はじまりであり、自我を増大・肥大させるはじまりであり、
と、
思考の、わたしの中でのはじまりだったのです。
(2) 神秘体験による虚栄心の増大と、麻原への盲信への誘導
アレフは、ヨーガの行法などで、まず、神秘体験をさせます。
それにより、その人が、
「一般の人よりも優れた存在、修行者、聖者になった」
と主張して、虚栄心を満たす方向に誘導します。
その際に、その神秘体験について、
「グルである麻原の神秘力によって、もたらされた」
と主張して、麻原への盲信に誘導するのです。
ひかりの輪の修行者や、他のヨーガの修行者は、麻原なしで、クンダリニーの体験などのヨーガ体験・
ということは、それは、
>>詳しくはこちら ヨーガ・仏教の教えを、麻原の教えと混同して信じてしまう
こうして、虚栄心の増大、麻原への盲信の方向に誘導されます。
(3) 自己特別視による強い慢心の形成
こうして、アレフの盲信が始まると、自分たちが
「修行者」 「徳のある魂」 「聖者」 「聖なる魂」
となり、一般の人たちは、
「修行をしていない凡夫」「汚れた魂」
となり、気づかないうちに、強い慢心が生じてしまいます。
その裏側に起こることとして、麻原やアレフ教団の指導者に対しては、
ですがそれは、麻原やアレフ教団を、高く評価すればするほど、それに帰依する自分の価値も高まる構造になってしまっているから
◆その実例(アレフを脱会したEさん 20代女性 体験談より)
(家族にアレフをやっていることがばれたときに)「
てまで、家族よりアレフを信じるのか」と言われました。
(私は、「無知なこの家族たちよりはアレフのほうが真理だから、
いはずなのに」と思いました。
サマナの方には、「真理の邪魔をして、
といわれ、「あなたが頑張って天界に行くカルマを作れば、