麻原三女・松本麗華氏の月刊『創』7 月号における虚偽の記載に関して――『止まった時計』に関連して
先月5月、ひかりの輪では、麻原三女・松本麗華氏の著作『止まった時計』の虚偽の記載について指摘を行いました。
それに関連して、今月発売された月刊『創』7月号の麗華氏の発言の中に、以前、社会的に問題となった「麻原家族の絵画使用料の問題」についても、事実に反する部分がありましたので、それについて説明しておきたいと思います。
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【1】上祐代表と、『創』読者とのFBでの質疑応答
〈絵画使用料以外の部分に関して〉
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その前に、最近、その『創』の麗華氏の記事を読んだ読者の方から、上祐代表に、フェイスブック上でご質問がありました。それは、麗華氏の『創』の発言を見ると、上祐さんや野田さんの話のどちらが事実関係を正確に語っているのか、ますますわからなくなるので、回答して欲しいというご質問でした。
まずこちらからご紹介します。
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◎質問
「松本麗華氏と、上祐さんや野田成人さんのどちらが事実なのでしょうか?」
自分としては、個々人の良識に委ねたかったのですが、下記の質問に回答して欲しいと言う人がいるので、お答えしました。
【読者からの質問】
昨日発売になった「月刊創」15年7月号で、著者の松本麗華さん(麻原の三女)が、後日談の手記を書いてます。
そもそも『止まった時計』の内容にたいして、上祐史浩さんの「ひかりの輪」や元アレフ代表の野田成人さんらが、虚偽の事実が書かれているとブログで公表していますが、それにたいして部分的に反論してます。
わたしは、人を批判すれば生きていける世界ではなく、それぞれが自分なりに生きていける世界になることを願っている。わたしを含めて、オウムに関わった人々の時計が動き始めたら嬉しい。」(月刊創2015年7月号 104-105p)
また、この手記では、新たに2000年からアレフが松本家に対して生活援助を始めた経緯を説明していますが、こうなるともうどっちが事実関係を正確に語ってるのか、ますますわからなくなります。この「創」の手記にたいする上祐さん野田さんの反応をお待ちしてます。
【上祐の回答】
どちらが正しいかは、こうした意見が対立する場合に、この社会で、私たちが尊重すべきとされている証拠の質と量で判断するということではないでしょうか。
そこで、ひかりの輪は、証拠として、
1.私だけではなく、三女を実体験した、
他の多くの「ひかりの輪」のスタッフの証言
2.「ひかりの輪」とは利害関係がない、元アレフ幹部の野田氏、村岡氏の証言、
3.読売新聞の報道した、警視庁の捜査結果(私が警視庁から聞いた情報も)
4.公安調査庁の主張(公表されているものと観察処分の内部資料)
5.麻原の説法や獄中メッセージ(これは物証だと思います)
などを提供しており、しかも、
6.「ひかりの輪」の見解の事実関係についての大枠を、外部者である滝本太郎弁護士も認めており、
7.三女の著作の虚偽を指摘した、「週刊新潮」・「月刊宝島」の記事でも引用された
などの事実があります(とりあえず四女の証言は排除しておきます)。
また、彼女の主張は、
1.事件は麻原ではなく幹部のせい、
2.事件後の教団を主導したのは家族ではなく幹部である
というものですから、双方とも、麻原とその家族が教団を主導したという点が最大の特徴です。
これは、オウム教団の通説に反するものですが、一連の事件が信者にとって絶対とされた麻原が主導したことは、
1.過去の無数の裁判における、ほとんど総ての幹部の証言が
一致を見ていること
2.麻原が殺人を肯定している多数の講話や、幹部との会話の
録音という物証があること(例えば、NHKは、麻原が戦闘を
正当化する考えに幹部を誘導している録音テープを報道し
たことがあります)。
などから、合理的に判断して明らかだと思います。
一方、三女は、1995年の事件の際に、わずか11歳にすぎず、その彼女が事件を麻原ではなく、幹部が主導したと主張しても、証拠としてはあまりに信頼性が無いと思います。
よって、通説どおり、麻原とその家族が主導する教団に対して、麻原に強く愛着している三女が、麻原と自分を守るために、麻原とその家族が主導していない教団と言う虚構を主張していることが容易に推察されるのではないでしょうか。
私は、彼女が、司法制度を最終的な解決手段とする法治主義の日本社会の中で生きていくのであれば、今後、多くの裁判、証言、物証に基づいて結論された、絶対的な立場に基づいて麻原が主導した事件であったことは、素直に認めることが必要だと思います。
そして、「多くの人が証拠を持ってなんと言おうと、自分の主張が正しい」という三女の言動は、ある意味で、麻原そのものです。そして、それが、私たちが昔から知る三女なのです。
すなわち、今の三女のあり方が、例えば、野田成人氏などが非常に激しく「全く変わっていない」と主張する原因になっています。野田氏も、三女のためを思ってブログの記事を書いていると思います。
そこで、もうそろそろ、「根拠は度外視して三女を信じたい」と思う人以外は、三女のために、なぜ三女が、無理な嘘をついているのかの原因を考えてあげるべき段階ではないでしょうか。
私が推察するところでは、原因である可能性は、2つほどあると思います。
(1)被害妄想の可能性?
一つ目の可能性は、「教団は社会に弾圧されている」と考えた父親の被害妄想と同じ現象であり、今回は「今や社会に加えて元幹部・アレフが自分たちを弾圧している」という被害妄想に、もし陥っているとすれば、なんとも言いようがありません。
子供の頃から、あの教祖と教団で生きてきましたから、周囲は皆悪であって自分たちを弾圧する中で自分たちだけが正しいという「迫害の被害妄想に陥る教祖人格」というものが、子供の頃から染み付いている可能性があります。
なお、この責任は、自分の子供を「神の子」と位置づけた麻原に加え、その麻原の絶対的な指示の結果として余儀なくされたとはいえ、三女らを神の子として扱った、私たち当時の弟子たちの罪でもあります。すなわち、自己の血を含めて、自分を絶対化したのが、麻原の教えの本質であったのです。
(2)意図して嘘をついている可能性
二つ目の原因の可能性は、被害妄想ではなく、父親への異常な愛着と自己保全の結果として、意図して嘘をついていることです。実際に、彼女は、教団への関与を認めれば、法的な責任さえ追及されかねません。
例えば、教団に関与していないとして、昨年、公安調査庁に損害賠償を求める裁判を起こしていますから、今更それを覆せば、嘘によって賠償金を取ろうとした詐欺未遂罪に問われる可能性もあります。また、かつての入学を拒否された際の裁判も同じ構造です。
三女のためにも、皆さんの議論が、次の段階に行くことを願っています。
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このファイスブックの質疑応答を読んでいただいてから、以下の虚偽の事実関係をお読みいただくと、より構造がわかりやすくなるかと思います。
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【2】誰が本当のことを言っているのか?
記憶の塗り替えの可能性
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麗華氏の発言に関連して、興味深い事例として、「記憶の塗り替え」という検討も必要かもしれません。最近、麗華氏・次女・四女の3人に起こったことがあります。
麗華氏の『止まった時計』について妹の四女は「嘘ばかり」とマスコミで批判し、その後、麗華氏に続き、麗華氏と仲の良い姉の次女がブログを開設し、四女の問題を掲載。すると四女が反論を書き込み、次女がさらに反論。
その中で、次女は、「(四女が)意図的に嘘をついているのか、無意識的に記憶を塗り替えているのかをずっと考えて続けてきた」と述べています。
このような事例から、記憶の塗り替えの可能性について考察した、上祐代表のブログ記事をご紹介します。
>>「心の解放・悟りの哲学 第4回 記憶の塗り替え、真の自分を知る③
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【3】麻原三女・松本麗華氏の月刊『創』7月号
における虚偽の記載
「麻原家族の絵画使用料の問題」について
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『創』の麗華氏の発言によると、麻原家族の絵画使料の問題については、著作の中では、自身の人生の物語ではなく自分とは関係がないとして書かなかったものの、その点を読者に改めて問われ、同月刊誌上で、それに答えたとあります。
この問題は、2006年に報道などで、「アレフ教団が麻原家族に多額の経済援助をしている」として批判を受けた問題です。
その経済援助は、2006年からではなく、その数年前から行れていたのですが、2006年に発覚した経緯は、その前後に、三女に近い男性信者に関する容疑で、三女らの自宅が家宅捜査を受けたことが関係していました。
まず、麗華氏の『創』での記載を確認しながら、事実について説明していきたいと思います。
1 松本麗華氏の『創』の発言の具体的な虚偽の内容
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(月刊『創』7月号「オウム麻原もと教祖の三女 独占手記 松本麗華として生きたくて」 p101~103)
「2006年6月ごろ、わたしたち家族に「絵画使用料」という名目で団体が資金援助をしているのではないかと、マスコミが騒ぎ立てたことがありました。
契約締結時にアレフ代表だった上祐史浩さんもこの絵画使用料について、月刊『創』(創出版)2007年4月号で、
「働くに働けない、ほとんど未亡人に近い知子さんに、子どもが六人にいて、(長女は別居)、という事情を考えると、同道とは支援できないけれど、こういう理由なら、後から公になっても理解をえられるんじゃないかと思って、月何十万円かを送ること契約をしたんです。形式的には知子さんが描いた絵画使用量とかにしていましたが、本質的には生活援助でした」
と述べています。
果たして、真実はどうだったのでしょうか。
2000年2月4日にアレフが設立されたとき、上祐さんは父の写真を使うのをやめ、母が画いたシヴァ神の絵を本尊として使うことにしたようです。絵画使用料の「絵画」とは、母が描いたこの絵のことです。母が画いた絵は次姉が大切に保管していました。
しかし、わたしと一緒に彼女が旭村の事件で拘留されているときに、ある正悟師が、「(次姉)の許可を取った」と嘘をつき、勝手に持ち出してしまったのです。持ち出された絵は撮影されて、多数印刷され、本尊として道場の祭壇に飾られたり団体の人たちに配布されたりしました。
母は、自分の描いた絵のことが気になっていたのか、釈放後すぐに、次姉に対し、「あの絵はどこ? 恥ずかしいから捨てる。持ってきて」と言いました。この「絵画」が使用されていることを母も知らなかったようです。自分の絵が複製され、団体に出回っていることを知ると、「全部回収させて!全部破棄させて!」と叫んだといいます。
母は、法的手段を使っても回収を図りたいという意向で、「とにかく絵を回収させて。勝手に使っているなんてひどい!ずっと捨てるつもりだったのに!」と、言っていました。
団体を法的に訴えてでも、絵の処分をさせるということを母が強く主張したため、わたしたちは慌てました。団体が勝手に母の絵を盗り、複製して配布したことについて、怒りはありましたが、法的に争うことはしたくありませんでした。特に、絵の複製に関係のない人が困るのは嫌だという気持ちがありました。いきなり裁判となれば、団体の事情を知らない多くの人たちが困ってしまうのではないだろうかとも考えました。
そこで、わたしたちは弁護士さんたちに相談し、勝手に使用されている絵画の使用料を、正式に団体と契約し対価を支払わせたらよいのではないか、というアドバイスをもらいました。母は「契約なんてどうでもいい」となかなか納得しませんでしたが、法的手段をとった場合、余計に世間の目を引く可能性がありました。
「もし、勝手に使われたことを訴えたら、それはそれでマスコミにも注目されてしまう。恥ずかしいとお母さんが思っている絵が今よりも有名になってしまう、何百、何千と複製されているものだから、もう隠しておくことはできないと思う。それならば、あきらめて、悔しいと思うけど、お金をもらうという方法で折り合いをつけたらどうかな」と言ったところ、母は悔しそうではありましたが、納得してくれました。
上祐さんも「使用料を支払うから引き続き使用させてもらいたい」と強く要望したため、契約が正式に結ばれることになりました。2002年の12月のことです。
この契約は、弁護士の先生を交えて、母と団体が契約書を取り交わした正式な契約であり、内容も法的に正当なものです。
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しかし、この主張は、様々な点から、全く不合理で、事実に反しています。その理由を以下に述べます。
(1)麻原の家族が「使うな」と言えば教団は絶対に使えない
第1に、教団の中で、麻原の家族は、麻原によって「上祐ら幹部信者を上回った最高権威」と位置づけられていることは、すでに以前の記事で説明したとおりです。よって、もし、麻原の家族が、「シヴァ神の写真を使うな」と一言上祐らに指示すれば、教団は絶対に使えないという立場にありました。
当時のその権威の絶対性は、以前の記事で説明した通り、実際に2003年には、当時信者の中のトップで教団の代表であった上祐が、麻原家族の指示によって、教団活動から外され幽閉されたという事実さえあるほどです。
上祐は2005年前後から家族に反抗を始め、2007年に脱会するに至りますが、「絵画使用料」の話は、2002年の時点であり、依然として上祐の中では、麻原と麻原の家族に対する帰依・信仰が残っていた時期のことです。
(2)麻原家族の反対を押し切り、妻のシヴァ神の絵を使う必要性はない
第2に、オウム真理教及びアレフが用いたシヴァ神(正確には「シヴァ大神」)の絵画は複数あり、麻原の妻の絵は、その一つにすぎないものでした。ですから、アレフ教団として、妻の絵を使わなければならない絶対的な必要性はありませんでした。
多くの方がテレビなどで、オウム真理教総本部道場に設置されている「シヴァ神の絵」をご覧になったことがおありかと思われますが、そこで映っていた絵は、妻の描いたものではなく、ある女性の弟子が描いたものです(NHKの特番でモデルとなった幹部信者)。そして、その妻が描いた絵ではないシヴァ神の絵を、アレフ教団も使っていました。
このことから、仮に、家族の要請があった際に、それに抵抗しなければならない理由はないということがおわかりいただけると思います。
(3)教団では、弟子に著作権の権利は誰にもなかった
第3に、オウム真理教では、妻や上祐を含め、弟子たちが、自分の書いた本や絵画に「著作権」などを主張することは一切なく、オウム真理教時代に、「著作権料」を受け取ったことも一切ありません。
というのは、麻原の説いた「極限の布施」という教えがあり、弟子たちは、自分の財産は、総て教団(宗教法人オウム真理教)に布施するという考えだったからです。
より正確に言えば、弟子たちは、自分が本や絵を書いたとしても、それは、自分たちのためではなく、教団のために書いたという理解であって、著作権の法律概念で言えば、「個人の著作物」ではなく、いわゆる「法人著作物」ということになるのかもしれません。
それは、麻原自身でさえも実践していたもので、そのことを麻原は公の場で明確に認めています(例えば、破防法弁明手続きの際の麻原の発言の中に、「私は一文無し」というものがありました)。
また、先ほど述べたシヴァ神の絵画を描いた幹部信者に対しても、教団は一切使用料などは払っていませんでした。上祐も、オウム真理教時代に自身の著作や写真集がありましたが、一切お金を受け取っていません。
よって、妻だけに、しかも、たった一つの絵画に対して、毎月40万円、毎年480万ものお金を払うわけがないことがおわかりいただけると思います。
(4)妻のシヴァ神の絵は、すでに多数に配布・使用されていた
第4に、妻のシヴァ神の絵は、すでに1986年前後から、オウム真理教の前身団体の「オウム神仙の会」に入会した者に配布されており、上祐らも受け取っているものです。
こうして、妻が書いた絵は、もともとこのように広く配布され使用されていた絵画ですから、それを今さら使うなという話になるということ自体が、不合理だということもおわかりいただけると思います。
なお、当時上祐らがいた時のアレフは、麻原の写真を使うことを控えていたので、その代わりに、シヴァ神の写真を使うことが多くなったということは事実です。
そして、以上のことは、オウム真理教の幹部であれば、誰もが知っている周知の事実です。
2 上祐が実際に経験した「絵画使用料」についての証言
では、実際に起こったことは何であるかについて、当時のアレフの代表であり、この件で、麻原の妻と直接話をしていた上祐に確認したところ、以下の返答がありました。
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麻原の妻(松本明香里(当時知子)氏)が、2002年の末に出所してきた際に、私が直接彼女と会ったところ、今後の彼女の生活費として、40万ほど必要であるという話になり、それを教団が提供することとし、その名目を「絵画使用料」とした。
(2)「毎月40万」は、麻原の妻子の生活費として聞いた額
毎月40万という数字は、妻から、だいたいの必要な生活費として聞いたものである。一般の人から見れば、多すぎると思われるだろうし、これが公になった2006年に、そのような批判があった
しかし、当時の自分は、「40万」という額が妥当なのかどうかは、あまり考えなかった。というか、考える立場になかったという方が正しいかもしれない。というのは、教団にとって、相手は教祖の家族であるからだ。
ただし、彼女が外部で就労することは不可能であり、家賃も払わなければならないことは知っていた。
よって、それは、本当の意味での絵画使用料ではない。仮に、絵画使用料であるとするならば、私と妻の間で、なぜ「毎月40万」が妥当なのかについて交渉があったはずだが、そんな話は一切無い。
普通、ある絵画を複製して教団施設や会員に配布するとするならば、その使用法や複製の数に応じて料金が変わるものだろう。
また毎月の支払いにする理由も無い。「毎月40万」とは、それが毎月の生活費として出てきた数字であるからにほかならない。
三女の記載を見ても、この点は全く説明されていないが、実際に、そんな話は無かったからである。
(3)生活費の名目を「絵画使用料」とした理由
なぜ、単純な経済援助(贈与)とするのではなく、絵画使用料としたかというと、仮にこの事実が社会に知られた時に、教団が麻原の家族に布施をしているとか、家族は教団からの布施を受けている、となれば、社会的に批判される可能性があるからである。
その当時から、家族は、公には「教団に関与しない」と主張していた。妻もそうであった。にもかかわらず、多額のお金を受け取っていることが知られた場合、援助=贈与=お布施であるというよりも、「絵画使用料の支払い」とする方が多少なりとも、聞こえが良いということだった。
(4)契約書作成時含め、麻原家族の弁護士とは会っていない
三女の記載があいまいなために、読者が誤解するといけないので加えるが、私は、麻原の家族の弁護士とは、一度も会っていない。今まで一度も面識がない。私は、母親との話をしただけである。
契約書の作成は、私と妻が同席した場では作成されていないと記憶している。当時の教団の経理担当の中堅幹部が、当時アレフの代表だった私と、母親の間を行き来する形で作成したと思う。
(5)「絵画使用料」を巡って麻原家族と対立
2006年、三女に近い信者に対して、おそらく税法に関する家宅捜索があったと思う。その前後に、マスコミに、絵画使用料名目で、40万ものお金が支払われているということが、批判的に報道された。
この2006年の時点では、私を中心としたグループ(いわゆる上祐派、代表派)と、家族を中心としたグループ(いわゆるA派、正統派)に、既にアレフは分裂していており、批判報道を受けて、私たちのグループは、彼らのグループに、これ以上経済援助を続けることを止めるようにと主張し、彼らと対立した。
しかし、社会の批判を受けて、彼らも、それを見直すことを検討するという発表をしたことがあるようだ(最終的にしたかはわからない。しなかったのではないか)。これは、このお金の本質が、「教団信者の教祖家族に対する尊重」を土台としたものであって、実質上お布施に近い面を持った、経済援助であって、本当の意味での絵画使用料ではなく、それにしては高すぎるということを彼らも承知していたからだろう。
●ウィキペディアの記載
なお、上記の上祐の説明は、ウィキペディアが、当時の上祐の発言に加えて、当時の警察捜査に基づく報道を含めて、以下の記載をしています。
「松本知子
出所後は教団に戻っておらず、2006年半ばまでは教団との関わりは薄いと見られていた。
ところが、2006年7月20日、アーレフ信者の容疑にかかわる家宅捜索の報道[※4]を通じて、松本知子と三女を中心として松本家が信者からの資金援助を受けていたことが明らかとなり、(中略)こうしたなか、教団が2002年12月以来松本家に「松本知子作の絵画の使用料」を名目として継続的に資金提供してきたことまで報じられた。
こうした経緯を経て、2006年9月20日、教団が契約に基づいて2002年12月以来松本家に月40万円を絵画の使用料として支払ってきたことを、分裂状態の反代表派に属するアーレフ広報部、上祐派広報部の双方がともに認める見解を発表した[※6]。
以後の支払いを打ち切るか継続するかについては、両派で意見が対立し合意に達しなかったため、契約は継続されているという。
なお、上祐史浩は2007年3月発表のインタビュー[※7]において、絵画の使用料契約が当初から実質的に生活援助であったことや、その後信者から松本家への資金提供の流れがあったことを認め、また反代表派の信者が松本知子を含む松本家の人々と個人的接触をしてその意向が教団に反映される、といった形で松本家が実質的に教団に影響を与えていると述べ、四女の告発を事実として認めている。」
[※4] 『読売新聞』2006年7月20日。
[※6] 『朝日新聞』2006年9月21日など各紙報道。
[※7] 「アーレフ(旧オウム)分裂!上祐史浩代表独占直撃!」
『創』2007年4月号、創編集部。
(ウィキペディア 「松本知子」)
(上記ウィキ[※4])
オウム真理教の松本智津夫被告(51)の家族の側近信者の男女2人が、脱税目的で銀行口座を開設し、銀行から預金通帳をだましとったとして、警視庁公安部は20日午前、茨城県龍ヶ崎市内にある松本被告の妻(47)の自宅や埼玉県越谷市内にある同被告の三女(23)の自宅など数か所を詐欺容疑の関連先として捜索した。
調べによると、側近信者の女(35)は2002年4月ごろ、コンピューターソフト開発事業を営む側近信者の男(35)と共謀し、この男に雇用されている実態がないのに、給与の支払いを受けると偽って、都市銀行支店で口座を開設し、預金通帳をだまし取った疑い。
公安部は、給与を支払うよう偽装することで、男の個人事業所得を圧縮し、所得税を免れる目的もあったとみている。
(2006年7月20日11時19分 読売新聞)
なお、麗華氏が言う通り、この絵画使用料は、主に麻原の妻のための援助であって、麗華氏のためのものではありません。ただし、麗華氏が自分の生活のために、信者の布施を受けていないかというと、それは全く別の話です。
この点に関して、上祐は以下のように述べています。
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(2)そして、その信者の中には、外部に就労している信者もおり(主に男性信者)、三女は、彼(ら)の布施を受けて生活していた。
私は三女から直接、
「(彼らが)働かなくなったら(自分の生活が)困る」
「私には財徳(お金を得る人徳)があり、一千万円を持っている」
などと聞いたことがある。
そして、上祐の証言は、下記にウィキペディアが記載しているように、公安当局の見解と一致しています。さらには、麻原家族から家出をした四女が発刊した著作『なぜ私は麻原の娘に生まれてしまったのか』の中でも、麗華氏ら家族のお金の問題に関して、同じ趣旨の告発があります。
また、アーレフ広報部が生活支援については否定する一方、以前から報じられている松本知子への絵画使用料については認め、見直しを含めた検討をおこなっているとしていると報じている。」
[※8]「麻原妻子に年間1500万円 オウムや元信者、生活費など支援」『産経新聞』2007年3月20日。
4 麗華氏が虚偽の主張をする原因は?
さて、麗華氏が、記憶が混乱しているのではなく、もしも、意図して虚偽の主張をしているとするならば、その原因として推察されることがあります。
第一に、社会的な体裁の問題です。
前に述べた通り、そもそも、これまで麻原の家族は、実際には教団に関与しながら、公には、一貫して教団への関与を否定してきました。それが多額のお布施を受けていたとなれば、絵画使用料とする場合よりも、教団への関与がより疑われることになります。
第二に、法的な問題です。
仮に、教団への関与が明るみになると、法的な問題にも関係します。これはすでに前回の記事で説明したとおり、麗華氏らは、実際には教団に関与しながら、「教団には関与していない」として、入学を拒否された件で、損害賠償請求の裁判に勝訴して賠償金を得たことがあり、警視庁に問題視されたことがあります。
また、麗華氏は、昨年も、公安調査庁が自分を教団の役職員と認定したことについて、事実に反するとして損害賠償請求を行っていますが、仮に、実際には教団に関与しているということになれば、虚偽の主張で損害賠償金を受け取ろうとしていることになり、法的な問題となります。
税法上の問題も生じる可能性があります。
この40万が、実質的に、絵画使用料ではなく、経済援助であるならば、毎月40万、年間480万の贈与を受けたことになりますから、贈与税を支払わなければならなかったことになります。
ただし、絵画使用料として受け取れば、所得税を納めることになりますから、その所得税を納めていないとか、社会的な体裁とは別に、税を不当に減らそうという意図があったことはないと思います(すなわち、贈与税と所得税のどちらが高くなるかもわかりません)。
なお、この問題が発覚した2006年には、麗華氏に近い信者に対する容疑で、麗華氏と、麻原妻宅が家宅捜索を受けていますが、その容疑は、所得税に関するものでした。
また、「著作権侵害」の問題があります。
現在、麻原の家族が裏から支配するアレフは、被害者団体(オウム真理教犯罪被害者支援機構)から、「事件の賠償のために、現在は被害者団体が所有している宗教法人オウム真理教の著作物を、教団(アレフ)が使用しないように」という訴えを受け、東京地裁で調停中です。
被害者団体は、オウム真理教で用いられた書籍・ビデオ・絵画・音楽などの著作物はすべて、基本的に、教祖も信者も、宗教法人オウム真理教のために製作したものであり、宗教法人オウム真理教が著作権である(法人著作権)と主張していると思われます。
妻・麗華氏・アレフが、妻の絵画使用料を主張するのは、被害者団体から見れば、本来は、オウム真理教の著作物であり、被害者団体の所有物であるものに対して、そうではなく、妻の著作物であると主張して、被害者団体に対抗する意味を持っていると解釈することができます。
以上です。
麻原三女・松本麗華氏『止まった時計』(講談社)の虚偽内容 1~6
(2015年05月12日)
※ こちらにも「ひかりの輪 オウムの教訓サイト」から転載します。
『止まった時計』(講談社)においては、残念ながら、事件後のオウム真理教や、その後継団体のアレフにまつわる出来事に関して、多数の虚偽の内容が含まれていました。
この件は、報道機関からも、私たちに問い合わせがあり、その一部はすでに報道されました(「週刊新潮」5月7日・14日号、p43)。
ただし、報道されていない部分もありますので、以下に「オウムの教訓」として、記事を掲載いたしました。
麻原三女・松本麗華氏『止まった時計』(講談社)の虚偽内容について
記事一覧
三女の、オウム真理教における基本的な位置づけと、一連のオウム事件後の、99年までの以下の事実を説明します。
1 麻原の「獄中メッセージ」(95年・96年)
2 観念崩壊セミナー(96年)
2000年、受刑を終えた上祐が教団に復帰後の、三女の教団関与について、『止まった時計』(講談社)の記載の中で、具体的に事実に反する記載の事例を挙げて説明します。
2003年以降、三女らは、上祐を、アレフの教団運営から外し、修行に籠らせましたが(2003年後半~2004年末近くまで)、1年半間ほどの幽閉の後、上祐と上祐を支持するグループが、麻原の家族らに反抗を開始して、教団分裂に至りました。
1 三女を中心とした麻原家族の「上祐外し」を示す多数の証言
アレフを脱会した元幹部(野田成人氏、村岡達子氏など、当時、三女と直接の「上祐外し」に関係した者たちの、8名の証言です。
2 「上祐外し」前後に関する三女著作の虚偽の記載内容
三女の著作『止まった時計』(講談社)の中の、具体的な虚偽の記載について、具体的に、事実に反する記載について説明します。
2005年以降の、事態を知る者たちの証言等を掲載します。
1 野田成人氏を、教団運営から排除
2 村岡達子氏を、教団運営から排除
3 2010年、読売新聞が報じた、警視庁が掴んだ、三女や妻の教団関与の証拠
麻原の家族内での分裂が勃発=教団分裂となっている現在までの状況について、補足的に説明します。
これまで①~⑤で述べたとおり、三女には、自ら主導して、教団に積極的に関与し、裏から支配してきた事実があり、その証拠となる多くの証言があります。
しかし、その事実を無理に隠したり、上祐や母(麻原の妻)といった他人を、主導者として責任を転化しています。
その原因・理由はなんでしょうか?
また、今後について、以下のさまざまな視点からまとめました。
1 三女が教団への関与や自分の主導性を否定する原因・理由について
(1) 三女の主観では、嘘をついていないつもりである可能性
(2) そもそもが事実の記載ではなく、主観的な感情・心情の吐露なのか
(3) 法的な責任を問われる可能性を回避したいのか
2 三女派の信者グループが今後も存続する疑いに関して
3 三女の過去の教団への関与による、悪影響の解消に関して
三女は、全ての信者達に対して、麻原の高弟であった自らの責任として、以下を明確にすべきだと思います。
① 麻原とその教えに対する信仰は、間違っていること、
② アレフが、麻原を絶対視する方向に回帰したことは間違っていたこと
4 三女が、麻原の事件への関与を認めていないことに関して
私たちが、三女が、麻原の事件への関与を確信しつつ、それを公には認めていないと考えている理由です。
5 三女の著作全体の評価について :前向きな内容も少なくないこと
麻原三女『止まった時計』の虚偽⑥ まとめ:三女が虚偽を述べる理由、疑い、問題、評価ほか
2015年05月12日
麻原三女・松本麗華氏著『止まった時計』における虚偽の内容と関連する事項について、前回の記事麻原三女『止まった時計』の虚偽⑤ 補足:2014年前後からの教団への関与の続きで、まとめの記事として、この記事で最後になります。1 三女が教団への関与や自分の主導性を否定する原因・理由について
これまで①~⑤で述べたとおり、こうして、三女には、自ら主導して、教団に積極的に関与し、裏から支配してきた事実があり、その証拠となる多くの証言があります。
しかし、その事実を無理に隠したり、上祐や母(麻原の妻)といった他人を、主導者として責任を転化しています。
その原因・理由はなんでしょうか?
推察してみると以下の通りとなります。
(1)三女の主観では、嘘をついていないつもりである可能性
まず、何らかの理由で、三女の主観では、その著作の通りの事実認識なのかもしれない可能性を考えてみたいと思います。
というのは、実際に、そういうタイプの人は、世の中にいることが知られています。
その典型的な事例が、他でもない三女の父親です。傍から見れば、陰謀説やハルマゲドン予言といった虚構の教義で、信者を騙しましたように見えるのでしょう が、事情をよく知る私たち弟子だった者たちから見れば、本人こそ、それを本当に信じていたと感じます。そして、カルト教団の教祖は、「本人が自分自身を一 番強く信じており、それに信者が巻き込まれる」というのが専門家の通説です。
麻原のような人物は、心理学的には、「空想虚言症」と呼ば れています。強いカリスマ性を持ち、虚言を弄して人を扇動しますが、その虚言を本人も信じており、そのための後に自滅的に崩壊していくタイプです。ヒト ラー、麻原、カリオストロなどが、その例として挙がっています。
ただし、これは単なる一般論であって、何かの証拠があって、三女が、このタイプであると主張しているのではありませんし、実際に、そうだともなかなか思えません。
(2)そもそもが事実の記載ではなく、主観的な感情・心情の吐露なのか
またより単純に、この著作自体が、客観的な事実に基づいたものではなく、三女個人の手記として、三女が主張したいことを述べたということかもしれません。
皆さんの身の回りにもいると思いますが、客観的な事実ではなく、自分の感情・心情を言うことが優先してしまうタイプの人たちです。
実は、麻原の四女が匿名で手記を出した際にも、このようなことがありました。
その四女の著作の記述の中で、上祐や江川昭子氏に関する記載に誤りがありました。
その際に、出版した徳間書店に問い合わせた際には、記載された事実の裏取りはしておらず、「(四女の)自伝的な色合いの濃いもの」だという返答が書面で送られてきました。
同様に、三女の著作を出版した講談社も、その事実の裏取りなどは全くしていないと思います。そして、徳間書店と同じように、これは、個人の主観的な手記であるという言い訳をするかもしれません。
実際に、三女の著作の前書きには、
「わたしは、この本をノンフィクションとして書きました。原稿を書く際には、事実の裏付けを取りましたが、「こういうことがあった」という記憶があっても、裏付けが取れないこともありました。そのため、記憶を元に書いた部分もあることをあらかじめお断りしておきます。」という記載があります。
これは三女が自ら入れたのか、それとも出版社(講談社)が入れさせたのかわかりませんが、わざわざ「ノンフィクションとして書きました」「裏付けが取れないことがありました」という表現自体が不思議な表現です。
これは、後で記載内容が事実に反することが分かっても、「自分の記憶ではこうだった」と主張するための予防線でしょうか。
実際に、「裏付けを取りました」と言っても、少なくとも私たちが知る範囲では、三女ないし出版社が、団体の(元)関係者に裏付けを取った事実はありません。
この部分は、例によって、出版社が、自分ための逃げ口上として用意したもののようにも感じます。
事実の確認を重視せずに、フィクションの中の物語のように、善玉と悪玉を設定したり、悲劇のヒロインが登場するストーリーを展開すれば、面白い読み物には なるでしょう。しかし、それは出版社の商業主義的な発想によるものに過ぎず、実在する人物や団体に関する虚偽の記載が与える悪影響は甚大です。
読者の中に、この著作の記載を物語ではなく事実と誤解する人がいることは確実であり、記載の対象となっている元幹部信者や現アレフ信者の名誉を毀損する部分があることは間違いなく、それが故に、そうした言い訳では済まされません。
よって、まず、このHPで真実を明らかにしたうえで、その後の対処を考えざるを得ないと思います。
一番気になるのは、今現在、アレフ教団の中で、この三女の著作での主張に反発してのことでしょうが、荒木広報部長などが、それを否定する会合を行っている という情報があります。そのため、この著作は、一時的には三女の立場をよくするかのように見えて、長期的には、麻原の妻やアレフの体制派のメンバーの反発 を買うために、逆に三女に不利益をもたらすのではと心配します。そうなった場合は、出版社にも責任があると言わざるを得ません。三女を役職員として認定し た公安調査庁の反発もあるでしょう。
(3)法的な責任を問われる可能性を回避したいのか
さて、こうした見方とは全く別の見方があります。
それは、三女が、教団への関与や自分の主導性を否定するのは、法的な責任の追及の回避があるという見方です。
言い換えれば、「教団への関与を認めてしまうと、自らに法的な責任が及ぶ恐れがある」ということです。
それは、公安調査庁が、「教団に関与していない」という三女の主張に信用性がないとする根拠の一つでもあります。
具体的に言えば、かつて、三女は、教団に関係しているとして、和光学園に入学を拒否されたことがありますが、それを不当として損害賠償請求訴訟を起こした ことがあります。そして、その裁判の中でも三女は、「教団に関与していない」と主張をしましたが、それは上祐らを外すために、激しく教団に関与している 真っ最中のことだったのです。
そして、話はこれで終わりではありません。
というのは、三女の教団関与を知ることがなかった東京地裁は、2006年に、三女の請求を認め、三女勝訴の判決を出しています。すなわち、「虚偽の証言をし、損害賠償金を受け取った結果」になっているのです。
さらに重要なことは、この当時から、仮に、三女ら家族が、実際には教団に関与しているのにもかかわらず、裁判で虚偽の主張をし、損害賠償金を得たとすれば、違法行為(詐欺容疑)に当たる疑いがあるという見方が、警視庁の中で浮上したことです。
私たちは当時の警視庁幹部から直接聞いています。
そして、上祐の著書(『オウム事件17年目の告白』)にもある通り、2006年に、上祐代表は、当時から三女や麻原の妻に近かった荒木浩広報部長に対し て、いよいよ三女や麻原の妻ら家族と完全にたもとを分かつ(=脱会する)理由の一つとして、この違法行為の疑いの問題を指摘した上で、同部長に、この危惧 を三女や麻原の妻ら家族に伝えるように要請しています。
さらに、2006年には、三女ら家族は、別件で警視庁の捜索も受けています。
こうしたことを考えれば、三女が教団への関与を否定しているのは、こうした法的な責任が追及される可能性を回避するためではないかとも思われます。
場合によっては、学校から賠償金の返還を請求される可能性もあるかもしれません。
しかし、三女が、その著作で述べているように、今後社会に融和するつもりであれば、今後は、速やかに真実を述べることが求められると思います。
実際に、本件の立件を警察当局は見送っています。そもそも、公立ではなく私学であったとしても、家族が教団に一定の関与しているからといって、学校が家族の入学を拒否することは、人道的な立場からは疑問を持つ人もいるでしょう。
さらに、2006年までの詐欺行為であるならば、既に時効が成立していることになります(偽証や詐欺は7年が時効)。
ただし、未確認ですが、家族は、三女以外にも、次男の件で、同様の裁判を提起したという情報もあります。その裁判提起に対して、当時は次男を育てていた三女らが関与している場合は、時効は未成立かもしれません。
他の法的な責任追及の可能性もあります。
例えば、アレフは、陰謀論を使った詐欺的・洗脳的な教化を行ってきました。こうした行為が違法と認定される状況になれば、麻原の妻に加えて、公安調査庁が三女をアレフの意思決定に関わる役職員であると認定したことは、三女には重大な事態を意味します。
なぜならば、自分が直接に、その行為に関与していなくても、教団トップの一人として責任を追及されかねないからです。
4 三女が、麻原の事件への関与を認めていないことに関して
私たちは、三女が、麻原の事件への関与を確信しつつ、それを公には認めていないと考えています。
三女は、まだアレフに在籍していた頃の上祐には、「麻原の事件関与を認める主旨の発言」を繰り返ししていました。
また、三女は、オウムの教義において、「麻原が絶対的で、その意思がなければ、弟子が殺人などを犯すことができない」ことを熟知しているはずです。何より も、麻原はおろか、自分に対してさえ、その意志に反して、信者が、重大な物事を行うことはできないことを自らの経験から熟知しているはずです。
よって、三女が麻原の関与を認めない理由として、娘としての父親への感情もあるかもしれませんが、そこには、麻原への帰依心を含んだものという疑いが生じ ます。というのは、麻原は、1997年の裁判での不規則発言において、弟子が事件を起こしたという主旨の証言をしています。
そして、麻原の教えでは、麻原への絶対的な帰依として、弟子はグルと同じように語るべきであるというものがあります。少なくとも形の上では、三女の言動は、ちょうどこれに当たることになります。
一方、陰謀説を唱えているアレフの主流派は、弟子の関与を認めた麻原の裁判での不規則発言の証言ではなく、逮捕される以前の麻原の言動(=陰謀説)を帰依の対象としていると解釈できます。
すなわち、三女とアレフ主流派の間では、「帰依の在り方の解釈」が異なるということです。
こうした帰依の疑惑を解消し、純粋な父親への愛情であることを証明するには、やはり事実に基づいて、父親の事件関与を潔く認め、父親に代わって謝罪した方 が良いと思います。その方が、彼女にとっても、彼女がその死刑に反対する父親のためにも、よりよい理解を得られるのではないでしょうか。
5 三女の著作全体の評価について:前向きな内容も少なくないこと
これまで三女の『止まった時計』(講談社)の虚偽の記載を含めた、問題点を述べてきましたが、これは、その全ての価値を否定するものでは決してなく、以下の点については評価できると思います。
(1)アレフ信者を、妄想・幻影の束縛から解放する一面がある
第一に、三女は、麻原によって救世主と位置づけられ、信者に絶対的に近い存在という妄想を与えられていましたが、三女の著作は、実際には自殺未遂を犯すなど、全く普通の人間の一人であることを公に認め、信者を幻想の呪縛から解放する一面があることです。
実際に、「三女の著作を読んで、前から抱いていた麻原・教団への疑問が決定的となって、アレフを脱会したい」という相談が、アレフの脱会支援活動をしてい るひかりの輪にも来ています(そのため、アレフの体制派は、「三女の著作を読むべきではない」という指示を出す可能性がありますが)。
(2)将来において麻原の関与を認める可能性も示している
第二に、「オウム事件は陰謀」と主張しているアレフ体制派と比較すれば、三女は、麻原の関与は以前としては認めていないものの、「弟子達の関与」は認めており、謝罪していることです。
仮にそれが、三女なりの麻原への帰依の在り方の解釈だとしても、麻原・オウム真理教の最大の問題の一つが誇大妄想と被害妄想であり、相対的であっても、よ り現実的な見方を持つことは、将来において、麻原の関与を含め、全面的な関与を認めるに至る可能性を示していると思います。
なお、上祐の著作(『オウム事件17年目の告白』)にある通り、2003年前後においても、三女と麻原の妻を比較すると、三女の方がより現実的な感覚を有していました。
今回の両者の対立は、既に10年前から存在していた両者の性格・考えかの違いがついに表面化したものと考えることができます。これは、今後とも拡大していくと思います。
(3)上祐が「麻原隠し」をしているという公安調査庁の主張と異なり、「上祐に麻原信仰がないと考え排除した」という事実が述べられている
第三に、三女が、上祐代表が、アレフを脱会する以前から、麻原に対する信仰がないのではないかと考え、上祐らを排除したという主旨のことを述べていること です。これは、公安調査庁が、明白な証拠もなく、断片的な情報を組み合わせて、上祐代表らひかりの輪が、麻原への信仰を隠した、麻原隠しをしているという 主張をしていることと、明らかに矛盾する事実です。ひかりの輪は、繰り返し要請していますが、公安調査庁は、虚心坦懐、自らの主張を再検討するべきだと思 います。
(4)公に、真偽を監視される立場になったこと
第四に、三女の著作の記載や言動に多くの虚偽や問題があったとしても、三女が、メディアで、公に、「教団には関与せず、社会に復帰したい」と宣言したことは、多くの人々によって、その真偽を監視されることになります。
それは彼女の今後の行動を、良い意味で拘束するでしょうし、段階的にではあっても、その言動を表裏を和らげていくなどの改善が生じることが期待されます。
なお、一部の事情を知らない一般の方から、「上祐代表らが三女と話し合えば良い」といった意見がありましたが、ひかりの輪のスタッフは、三女ら家族とは、10年以上、関係を断絶しています。
今後、三女らが、麻原の事件関与を率直に認め、信者が陰謀論の主張をやめるような方向で、ひかりの輪や元オウム幹部の野田氏などと、アレフ信者の脱会支援などにおいて協力ができればよいとは思いますが、現段階では、なかなか現実的ではないようです。
ともかく、あくまでも以前の三女との比較ではありますが、この著作は、一歩前進という前向きな意味合いがあると思います(そのように信じて期待したいと思います)。
以上で終わります。
麻原三女『止まった時計』の虚偽⑤ 補足:2014年前後からの教団への関与
2015年05月12日
麻原三女・松本麗華氏著『止まった時計』における虚偽の内容と関連する事項について、前回の記事麻原三女『止まった時計』の虚偽④ 2005年・06年の「正悟師外し」への関与の続きです。⑤ 補足:2014年前後からの教団への関与
――家族内での分裂が勃発=教団分裂へ
こうして、正大師である上祐やほとんどの正悟師を排除してきた三女ら家族ですが、当局・教団の事情に詳しい元信者たちの情報によれば、昨年2014年前後 から、三女と妻の間で、次男の教団復帰を巡って意見の対立が明確となり、教団が分裂し始めたとみられ、たびたび報道されるようになりました。
分裂の理由は、次男の教団復帰の是非をめぐる意見の対立です。
麻原は、「長男・次男を猊下と呼び、全ての弟子・家族に上に置き」、さらには、1996年に破防法が教団に適用される可能性があった際に、「自らは教祖を退き、長男・次男を後継教祖とする指示」を出したことがあります。
長男・次男は、そろそろ成人を迎えます。
そして、長男は教団復帰の意志がないものの、次男にはその意思があるとされます。そして、麻原の妻と、教団に残る最後の最高幹部の二ノ宮らが、次男の教団復帰を図る中で、三女・次女・長男らは、次男の復帰に強く反対していると言われています。
三女らの反対の理由は、厳密には明確ではありませんが、三女らが教団幹部にあてた手紙では、社会情勢からして次男の復帰は望ましくないとしているようです。
また、三女らを支持する信者には、本来、教祖は麻原だけであり、長男次男の後継教祖は破防法回避の方便にすぎないという心情があるようです。
これに対して、麻原の妻・二ノ宮側の主張は、麻原が猊下として弟子の最高位に置き、事情はともかく後継教祖に指名したことがある次男について、それよりの 下のステージである三女が、その復帰に反対することは、「猊下外し」であり、引いていは「麻原外し=グル外し」であるとして、三女を厳しく批判しているよ うです。
これは言わば、三女が上祐らを批判したことが、まさに自分に返ってきた状態と言うことができるかもしれません。オウム・アレフ の信仰では、麻原の定めた上下関係・位階制度は絶対的であり、さらに、麻原自身が社会に適応せず、対立する言動が中心だったために、自分より位階の高い者 に対して、社会的な配慮に基づいて反対したとすれば、結局は否定されることになります。
こうした中で、公安当局によれば、昨年2014年の年始セミナーの最中に、三女が、教団施設の近くに、中堅幹部多数を呼び出し、次男の復帰に反対し、社会的に批判を浴びている教団の拡大を慎むように呼びかけたとされます。
二ノ宮らは、これを厳しく批判すると、三女は、その後二回にわたって、教団幹部に対して、三女・次女・長男の名義で、次男の教団復帰に反対する主旨の手紙を送付するなどしました。
これを皮切りに、アレフの教団内部では、妻らの考えに同調する二ノ宮らと、三女の考えに同調する幹部信者の対立が始まり、2014年の夏ごろから今日に至 るまで、麻原の妻や二ノ宮側、いわゆる教団の体制派が、三女に同調する中堅幹部ら多数の信者を除名するに至っています。
また、2014年9月に、アレフは、次男と共に後継教祖とされた長男の教団復帰も願い、長男の了解を取らずに、長男の誕生日を祝う祭典を行いました。それに反発した長男は、アレフとその幹部多数に対して損害賠償請求を提起しました。
こうした中で、2014年11月の観察処分更新請求の中で、公安調査庁は、これまでの教団関与の事実に基づき、三女をアレフの役職員であると認定しました。これに対して、三女は、この認定を不当として損害賠償請求訴訟を提起しました。
ただし、三女を役職員とする公安調査庁の認定はいささか行き過ぎかと思います。確かに三女が教団に重大な関与してきたことは事実です。しかし、公安調査庁 の主張や証拠を見ても、その関与は不定期であって、企業で言えば、大株主の創業者家族で、会社のトップや重大方針に関する決定的な影響力がある者が、折に 触れて経営に口を出す事例と似ており、社長や取締役として、組織の活動に恒常的に従事しているのではないからです。
ただし、公安調査庁 の立場としては、アレフが実質的に2つに分裂した場合に、体制派の方は、観察処分に基づいた活動の報告などを従来通り求め続けることができるものの、三女 に同調する側のグループの方は、三女をそのトップと認定して一つの組織と見ない限り、そのグループの活動の報告を求める相手先・主体が不明確になる恐れが あります。
そこで、常識的な役職員の定義を、拡大解釈気味に適用しているのかもしれません。
一方、三女側から見れば、次男の復帰に反対したのは、次男のためだけではなく、家族全体が教団に関与している事実が発覚することを恐れたのではないかとも思われるところ、反対活動を行ったことが、逆の結果を招いたことになります。
三女の行動が、家族の中での話し合いにとどまらずに、多数の教団幹部に対する面会・手紙の送付などを含めた、大々的な活動となったために、教団に関与したと認定される結果を招いたのでしょう。
そして、今年に入って、教団の分裂は、さらに拡大しています。三女の考えに同調する信者は、例えば、一部の支部がアレフの本体から離脱・独立したり、埼玉の一部の施設を占拠しているなどとされています。
次で最後になります。
>>『止まった時計』の虚偽⑥ まとめ:三女が虚偽を述べる理由、疑い、問題、評価ほか
麻原三女『止まった時計』の虚偽④ 2005年・06年の「正悟師外し」への関与
2015年05月12日
麻原三女・松本麗華氏著『止まった時計』における虚偽の内容について、前回の記事麻原三女『止まった時計』の虚偽③ 2003年の「上祐外し」に中心的関与の続きです。④ 2005年06年の正悟師外しへの関与
上祐以外の最高幹部を次々と教団運営から外す
上祐を教団運営から外した後、三女や麻原の妻は、教団内に残る最高幹部(正悟師)会議と連絡を取る形で、教団に関与しました。
しかし、正悟師とされる最高幹部たちが、必ずしも自分達の方針に従わないことを見て彼らも次々と教団活動から外し、「修行入り」を命じるようになりました。
具体的には、野田成人、村岡達子、杉浦茂といった正悟師を排除しました。以下に、これらの幹部たちの実体験に基づく証言を紹介します。
なお、受刑を終えた正悟師の越川や、いったん脱会した正悟師の杉浦実の教団への復帰についても、家族の意向で妨げられたのではないかというのが、事情をよく知る者や当局の見方となっています。
1 2005年、三女が、野田成人氏を教団活動から外す指示を出したこと
以下は
『革命か戦争か』野田成人氏 p88~
野田成人のブログ
「月刊現代1」http://alephnoda.blog85.fc2.com/blog-entry-184.html
「月刊現代2」http://alephnoda.blog85.fc2.com/blog-entry-186.html
松本家の裏支配に悩んだ日々でしたが、04年7月6日に"解放"されました。私が薬事法違反で警視庁に逮捕されてしまったのです。(中略)
そして、当時バリバリの原理主義者だった村岡正悟師に経理が引き継がれたのは、05年の11月のことでした。この一か月後に、私は様変わりした教団に戻ることになります。
2005年12月26日、執行猶予の判決で教団に戻ってきた私を迎えたのは、村岡正悟師と別所幸弘氏(教団名・ラーマネッヤカ師)でした。別所は「人権救 済基金」という団体を事実上切り盛りする人物です。その弁護士とのからみで、松本家が抱えたトラブルを処理する弁護士も紹介していました。
つまり、教団幹部の中で唯一、正面切って松本家とコンタクトできる立場になっていました。彼は、松本家の信頼を得ていたようで、上祐によれば原理派の大番頭とのこと。その彼に聞いていました。
「ご家族は今後はどういう風に教団運営していくつもりなのですか」
「いやご家族はもう教団運営には、まったく関与されていないですから」
松本家の指示は、イエスマンだけで共有される機密事項です。予想通り、私は完全にカヤの外に置かれてしまいました。
「そんなはずないでしょう。私の時だって、ずっと裏で松本知子が指示出していたんだから」
「いや今はもう何も指示はないです」
「私がどうしたらいいか、聞いてほしいんだけど」
「捕まっていたわけですから、しばらく修行していたらいいんじゃないですか」
教団内で「修行に入れ」というのは、運営の現場に関わらないでくれ、という意味の別表現です。
「私が修行するかどうかは、あなたに指示されるべき話でもないから」
「・・・」
「でもあなたがアーチャリー正大師(三女)と会う機会があって、私のことについて聞く機会があるなら聞いてみてほしいんだけど」
「わかりました。聞いてみます」
当然のことですが、表向き松本家は、教団には関与していないとするしかありません。だた、最高幹部・正悟師の私を封じ込めるには、松本家の威光を借りるしかないのです。
次に村岡正悟師に、私が正悟師としてできることはないかと聞いてみました。(中略)
「将来的に教団が、経済的に立ちゆかなくなるのではとみんな心配しています。何でしたら経理を私が見させていただいてもいいですけど、どうでしょうか?」
「いや、ここだけでの話では決められないから」
「ここだけって、村岡正悟師が今経理の担当なんですよね?ご自身で経理のことは判断されているんじゃないですか?」
「いや、いろいろな人と相談しているから」
「いろんな人って誰ですか」
「特に誰っていうことはないけど、いろいろな人」
「・・・」
「だったら師以上を全員集めて、会議やりましょうよ。以前やってたみたいに」
「いや今はそういうのもやってないから。会議に集めるのも、ここだけの話では決められない」
「じゃあ、誰と相談してそういうのを決めるんですか?」
「個別に関係する人と相談する」
「じゃあその関係者を今教えて下さい。私のほうから連絡取りますから」
「いや、それはこちらで後で考えて決めますから」
「・・・」
要するに責任の所在を特定させないで、ものごとを決めさせない作戦のようでした。(中略)
一日ほど経って別所から伝言がありました。三女に確認したという私の処遇は、やはり、「修行」という名の軟禁でした。まあこう言われてしまっては、最低一か月はおとなしくせざるを得ませんでした。
ただ、派閥争いに辟易し、なんとか事態打開をはかって欲しいと私に期待するサマナも多数いたのです。上祐氏を除けば順列ではトップに来る立場上、何ら説明もなしに引きこもっているわけに私はいきませんでした。
出所して3日後、烏山で説法をする機会がありました。
「アーチャリー正大師に指示されたので、しょうがなくしばらく修行してます」
ちょっとぼかした言い方でそう説明しました。
話が終わって、サマナたちとなごんでいたところに、荒木が険しい顔をして割り入ってきました。
「正悟師、ちょっと話があります。別のところでいいですか」
場所を移すと、荒木が怒鳴るように、
「今日のような松本家の話は、サマナの前でやる話ではないでしょう!社会融和上も松本家のことに触れることは問題があります!」
教団内での彼の地位は私より二つ下です。舐められたものです。しかし、いったい何が彼をしてここまで言わせたのでしょうか?
「私の立場で、サマナになにも説明しないで、修行に引きこもっていられると思っているのか?」
「どう説明するかは正悟師の判断ですが、今日の話は問題があると思いました」
「君はご家族と連絡取ってるんじゃないのか?前のほうの席で必死にメモ取っていたのはなんなんだ。私の話を報告するためじゃないのか?報告しろって指示を受けているんじゃないのか?」
「いや指示はありませんよ」
「君が松本知子と 常に連絡を取っているっていうのは私の耳にも届いているんだよ。どうなんだ?それは。」
「・・・」
「グル・シヴァ大神に誓って、松本知子とは連絡取ってない、一切やりとりがないと言えるのか?どうなんだ?絶対にないとグル・シヴァ大神に誓って言えるのか?」
怒気を込めながら、私が彼にこう迫ると、
「いや、たまに、連絡取ることぐらいありますよ。でもそんなに頻繁に取っているわけじゃないですから・・・」
松本家との連絡は個人的に取っているが、組織的な指示はない。そういう逃げ口上のようにも受け取れました。突っ込めるのはここまでが限界かと、私はこの場をおさめたのでした。
2 2006年、三女らが、村岡達子氏を教団活動から外す指示を出したこと
以下は「月刊現代2」http://alephnoda.blog85.fc2.com/blog-entry-186.html
『革命か戦争か』野田成人氏 p98~
野田成人のブログ
「月刊現代1」http://alephnoda.blog85.fc2.com/blog-entry-184.html
上祐らの一派と原理派である教団本体の分裂は、私が出所した2005年末の時点でほぼ決定的でした。もちろん原理派とはいっても全員が麻原回帰の原理主義なわけではありません。
しかし、松本家の威光は、代表であり正大師の上祐を引きずり下ろすほど、十分に強力なものでした。一般のサマナがあらがえようはずもありませんでした。
しかし、その原理派の一角を突き崩す出来事が起きました。松本家四女の家出です。(中略)
四女は、「ご家族」と神聖視されていた松本家の内幕を、一つふたつ明らかにすると、話を聞いた信者たちの中には、「松本家も聖人君子ではないんだ」と目を覚ます者もいたほどです。
村岡正悟師もその一人で、松本家の陰支配に疑問を呈するようになります。その結果として松本家からも疎まれ、徐々に教団内で、窓際の立場に追いやられていきます。彼女がそのように教団から離脱することによって、教団のバランスは微妙に変わっていきました。(中略)
四女の話に目を覚ました村岡正悟師は、もはや松本家からイエスマンとはみなされなくなりました。
松本知子は、村岡正悟師に次のような言葉を残して、連絡を絶つようになったのです。
「あなたは私たちを大事にしなかった」
脱会した「村岡達子」元アーレフ会長の「さらば麻原一家」
(週刊新潮 2011年8月11・18日号)より。
「6月6日付けで退会届を出しました。退会時の肩書きはありません。」(中略)
「3年ぐらい前から、私は信者でありながら全く教団に関わっていない状態でした。
追い出されるような形で(中略)教団所有のアパートに住んでいたのです。
教団から私は"おかしい人"と思われていたんです」(中略)
ところが、06年、事態は意外な方向へ転がる。麻原の四女が茨城県龍ヶ崎市の家から飛び出してきて、教団施設で暮らすようになったのである。
「あ る日、突然連絡があって"三女が長男に暴力をふるっている"と彼女が言うのです。 それで相談に乗っているうちに彼女と通じるものがあると気がついたんで す。(中略)上祐さんとアーチャリーの泥沼の抗争を収めるためには、2人(※妻と三女)より霊性の高い四女に教団に入ってもらうしかない。私はそう思った のです」
(中略)ところが、四女の影響力が大きくなってきたことを一番警戒したのが、麻原の妻と三女だった。
「尊師の奥さんが電話をかけてきて、"彼女(四女)の言うこと信じるの!?"と詰め寄られたこともありました」
その結果、麻原一族が選んだのは、四女を支持する村岡氏を放逐することだった。
権限を剥奪された村岡氏は、説法会の仕事も回ってこなくなり、沖縄の道場やさいたま市の施設などに送られ、本部から遠ざけられる。3年前からは前述の吉川市のアパートで飼い殺し状態に。
3 読売が報じた、警視庁が掴んだ三女や妻の教団関与の証拠
2010年の1月24日の読売新聞朝刊に、警視庁が2009年に、「Aleph」(アレフ)の関係先を家宅捜査した際に押収したパソコンに、アレフの信者が、麻原の妻子に、教団運営について指導を仰ぐ文章が見付かったことが以下の通り報道されています。
アレフ信者、松本死刑囚の妻子に指導仰ぐ文書
読売新聞 1月24日朝刊
警視庁が昨年夏、オウム真理教主流派の団体「Aleph」(アレフ)の関係先から押収した
パソコンに、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚(56)の妻(53)や三女(28)に宛て、教団運営について指導を仰ぐ内容の文書が複数残されていたことが、捜査関係者への取材で分かった。
教団側が公安調査庁に提出した信者名簿に家族の名前は記載されていないが、警視庁は、家族が松本死刑囚の影響力を背景に、依然として教団運営に深く関与しているとみている。
捜査関係者によると、警視庁は昨年7月、アレフ信者が公安調査庁の立ち入り検査を妨害したとされる事件で、関係先として、東京都練馬区にある団体の施設を捜索した。その際、押収したアレフの出家信者のパソコンなどから、松本死刑囚の妻や三女宛ての文書が複数見つかった。
文書は、この出家信者らが作成したとみられる。例えば、2009年には刑事事件で服役後に出所した信者の受け入れについて、翌10年には死刑が確定した元 教団幹部と信者の養子縁組などについて、それぞれ三女と妻に承諾を求める内容が書かれていた。中には「(家族の教団への介入が明らかになると)教団つぶし の展開になるかも知れないので、絶対に避けなければならない」との記載もあった。
警視庁は、一連の文書は妻や三女にメールなどで送られ ていたとみており、「教団は現在も松本死刑囚の影響下にあり、家族とも親密な関係を保っている」としている。教団は近年、松本死刑囚を「尊師」と呼び、誕 生日に生誕祭を開催するなど、「原点回帰」を強めているとされる。
松本死刑囚の妻はかつて、松本死刑囚に次ぐ「正大師」の地位にあ り、 「郵政省大臣」として教団の出版物の編集やビデオ製作を担当していたが、信者リンチ殺害事件で殺人罪に問われ、2001年7月に懲役6年の実刑判決が確 定。出所後は「アレフにかかわるつもりはない」とのコメントを発表し、その際、松本死刑囚との離婚の意思も表明したが、捜査関係者によると、離婚は確認で きていないという。
三女も以前は「アーチャリー」というホーリーネームで「正大師」の地位にあった。妻や三女は現在、埼玉県内で暮らしている。
www.yomiuri.co.jp/national/news/20120123-OYT1T01309.html
続きは以下です。
麻原三女『止まった時計』の虚偽③ 2003年の「上祐外し」に中心的関与
2015年05月12日
麻原三女・松本麗華氏著『止まった時計』における虚偽の内容について、前回の記事麻原三女『止まった時計』の虚偽② 2000年~裏から教団に関与の続きです。
③ 2003年の「上祐外し」に中心的関与
2003年以降、三女ら家族は、社会融和路線を進める上祐に対して、それが「グル外し」(=グルである麻原の否定)であると批判し、上祐を、アレフの教団運営から外しました(いわゆる「上祐外し」)。
この過程で、三女は、麻原の家族らの中で中心的・主導的な役割を果たしことは明らかで、家族らは教団施設の外で、野田成人・村岡達子などの教団内部の最高 幹部(いわゆる正悟師)や中堅幹部(師)と繰り返し面談するなどして、上祐を教団活動から外して、修行に籠らせました(いわゆる「上祐幽閉」)。
上祐は、2003年後半から2004年末近くまで、1年半間ほどの幽閉の後、麻原の家族らの方針に疑問を感じ、上祐の教団活動への復帰を支持する信者が増 えたことや、上祐の心境の変化(脱麻原信仰の始まり)もあり、上祐と上祐を支持するグループが、麻原の家族らに反抗を開始して、教団分裂に至りました。
なお、この教団分裂は、教団内の信者らから、「上祐派」と、「A派(アーチャリーのA)」と呼ばれていたことからも、三女が主導したことがわかります。
この上祐の活動再開の際も、三女は、自ら上祐と電話で話し、それを食い止めようとしました。また、三女は、多数の信者らに対しても同様のことを行いました。なお、その数年後、2007年に、上祐らのグループは麻原信仰を払拭して、アレフを脱会・独立しました。
一方、家族に誘導されたアレフ教団は、麻原への帰依を再び強めていきました(いわゆる「麻原回帰」「アレフの先鋭化」。
この教団の方針転換は、明らかに、三女ら家族の関与の結果です。
その結果、家族が直接指示したという証拠はありませんが、教団は、オウム事件に対する麻原・教団の関与を認めない陰謀説を流布して、事件を知らない若い信者を入信させたり、さらに被害者団体との賠償契約の締結を拒否したりした事実があります。
1 三女を中心とした「麻原家族の上祐外し」を示す多数の証言
では、以下に、麻原の家族によるアレフ教団への関与・裏支配の実態について、アレフを脱会した元幹部信者の証言をご紹介します。
(1)証言① アレフを脱会した元幹部(野田成人氏)
「三女に、カラオケボックスに呼び出された」
野田成人氏は、アレフの最高幹部(正悟師)の一人で、上祐代表がアレフを脱会した後に、代表に就任した、アレフ元代表です。オウム・アレフ幹部時代に、直 接的に麻原家族と連絡を取りながら教団運営にあたったことから、三女を中心人物(の一人とした)麻原の家族の裏支配の実体験し、よく知る人物です。
『革命か戦争か』p69~ 「三女の登場」
野田成人のブログ
「月刊現代1」http://alephnoda.blog85.fc2.com/blog-entry-184.html
「月刊現代2」http://alephnoda.blog85.fc2.com/blog-entry-186.html
○三女の登場
2003年の6月上旬、私は突然松本家の三女に呼び出されました。多少の不安を抱えながら待ち合わせ場所のカラオケボックスに出向くと、一般の女子大生ふ うの身なりをした三女が現れました。しかし発言する内容といえば女子大生のそれではなく、以前と変わらぬ命令口調でした。
「マイトレーヤ正大師(上祐の宗教名)のやっていることがおかしいの。彼の言うことを聞かないで、陰で私に協力して」
要するに彼女の主張は、上祐の教団運営を批判するものでした。教祖である父をないがしろにしていて、上祐自身が教祖になろうとしている、という内容です。嫌な予感が的中してためらう私に、彼女はこう言い放ちます。
三女「あんた重いわねぇー。男性の正悟師はやっぱりカルマ(業)が重いのかしら。村岡達子正悟師なんてすぐハッと気が付いたわよ。目が覚めましたって・・・」
教団内の上下関係は、すべて麻原が決めていましたから麻原の子どもは、すべての出家者の上のステージに置かれていました。その下に上祐らの正大師、さらに 下には私を含めた正悟師と続きます。こうなったらどんなにがんばっても血筋には勝てないというわけです。上には唯々諾々と従う。それが帰依であり、教団内 で求められる秩序関係なのです。
「でも具体的にどうすればいいんでしょうか?」
「私が陰から教団に指示をするから、あなたはそれに従って。他の正悟師や師も従うって言っているから大丈夫。マイトレーヤ正大師の言うことは聞かないで。でも指示は私が出しているっていうのは、マイトレーヤ正大師にも秘密よ」
「はぁ・・・?」
「いい?従える?」
この話には正直うんざりしてしまいました。なぜなら、それまでの教団運営で三女ら麻原の娘の意向を優先させたが為に、99年の北御牧村のような騒動を招く ことになったからです。彼女たちが引っ込んで上祐体制になり、やっとまともな運営体制になったと安堵していたところにこの話です。ただこの時点では、まだ 私も麻原の娘に正面切って堂々と断れない情けない状態でした。
「本当にアーチャリー正大師が責任持ってくれるんでしょうか?」
出した指示に対して内部と外部両方に対してきちんと責任を持てなければ、権限をふるう資格はありません。教祖のわがまなな娘にそれを期待することは無理だろうなと思いつつも、こう言質を取るくらいしかその時のわたしにはできませんでした。
「うん、私が責任持つから」
「わかりました・・・」
この一週間後、三女に再び呼び出しを受けて出向くと、今度は二女と麻原の妻・松本知子も同席していました。(中略)公判では、「麻原と離婚することも考えている」と発言した松本知子でしたが、そんな発言はどこ吹く風で麻原を担ぎ上げます。
「尊師の教えをきちんと守るなら上祐体制に全面協力するって言ってあげたのよ。それなの裏切った。尊師を外して自分が教祖になろうとしている。許せない!」
すでにこの時点で、教団の正悟師であった村岡達子、杉浦茂、実兄弟、二ノ宮耕一の4人は懐柔され、反上祐派として固まっていました。どうやら私が一番上祐 寄りと危惧されていたようで、説得懐柔されたのは私が一番最後でした。逆に一番過激だったのは、武闘派として知られる二ノ宮でした。
「上祐のやっていることは絶対おかしいですよ!」
三女の問いかけに対して、二ノ宮は語気を強めてこう語っていたようです。(中略)二ノ宮はすでに、主要都市部にある道場長クラスを三女に合わせて、根回しを広げていたのです。(中略)
私を含めた正悟師5人と麻原一家は、何度か会合を重ねますが、内容はほとんど上祐批判です。
「彼(上祐氏)はね、尊師の説法囚を骨抜きになるよう編集しているの。「尊師は最終解脱者である」という記述から『最終』を取って『解脱者』にしようとしたのよ!」
松本知子の発言に、三女と二女も揃って声を上げます。
「とんでもないことだよねぇ!」
○上祐軟禁決定
しかし、麻原一家が裏から指示を出すなどという「秘密ごっこ」が、上祐にばれないわけがありません。松本家3人と正悟師5人が会した2003年6月26日の「秘密会議」でのことでした。正悟師5人全員の外出を不審に思った上祐が、次々に電話してきたのです。
三女は会議の存在そのものを気付かれないようにと、正悟師たちには、「シラを切って」と言いますが、私は思わず反論しました。
「こんなことやっていても絶対バレます。教団運営の責任を取るなら、いま電話して、ちゃとマイトレーヤ正大師(上祐の宗教名)と話してください。お願いします。」
懇願する私の声が、場の雰囲気をぶち壊したようになりました。松本家に逆らうのはなかなか大変です。他の正悟師は声を上げませんでしたが、無言で私を後押ししているようにも受け取れました。
それを感じたのか、三女は渋々席を立ち、一時間ほど上祐と電話で話をしたあとに、私たちにこう告げました。
「これからマイトレーヤ正大師とここにいる全員で話をすることになったから。彼には修行に入ってもらうことにする。みんなでそう言ってね」
教団内では、組織の指示に従わなくなった人間には、修行に入れて籠もらせるという慣習がありました。(中略)外部との接触もできませんから、当然教団運営に関わることもできません。要するにここでいう「修行入り」とは、組織内での左遷のようなものです。
(中略)会議が始まったのは日付が変わった27日。奇しくも松本サリン事件から9年目の日でした。(中略)
こんなバカバカしい話で2時間くらいすったもんだした末に、最後には三女がこう言い放ちました。
「上の人の言うことを聞くのが帰依でしょ。皇子'(麻原の子ども)はどのサマナよりもステージが上だよね。私のほうが上だよね」
結局、この後上祐は修行に入ることになりました。こうして松本家による裏支配の始まりです。(中略)
「もうこんな陰でこそこそやっている体制なんかできないよ!やってられないよ!!」
二ノ宮がブチ切れたのは、上祐の修行入りから一か月ほど経った頃でした。松本家御前会議の直前に、私を含めた正悟師にぶちまけたのです。
「えーでも上祐体制だったらダメだからって、協力したんじゃなかったの?」と私。
「アーチャリー正大師が責任を持つって言うから協力したんだ。陰に隠れて全然責任取らないじゃん!!もういい加減にしろよ、って言いたいよ!!」
(中略)
しかし、いざ三女を目の前にした会議が始まると、二ノ宮は借りてきたネコのように黙ったままなのです。(中略)
「やはりご家族の指示というのが秘密で出せないところで、正悟師としてもサマナを納得させられない問題があります。あるいは結局誰が責任を取るのかということになってきます」
すると三女は、語気を強めて反論しました。
「そんなこと言ったって今の私たちの状況じゃ表に出られないよね!仕方ないよね!!」
(中略)二ノ宮はうつむいて押し黙ったままです。三女に威圧されたまま、問題が解決されないまま、会議は終わりました。
(中略)やりきれない気持ちを私に吐露してきたのです。
「もう修行も何もかもわからなくなてきたよ」
心配した私は、三女に電話してこの状況を伝えました。三女は二ノ宮を直接励ますと言って電話を切りました。三女の励ましが功を奏したのか、しばらく二ノ宮が切れることはありませんでしたが、それもしばらくの間でした。
(中略)
○陰湿な嫌がらせ
松本家の陰支配と上祐の軟禁は、2004年の年が明けても続きました。
団体の運営は正悟師会議で決定。その議長と書記を務めたのは私であり、当然松本家とのやりとりも頻繁に行っていました。(中略)
ステージの序列でいうと、上祐の次が私でしたので、そういう意味でも責任を感じていました。そのため自分の意に反して松本家と教団を取り持っていたのです。(中略)
松本家からの指示は、往々にして現場レベルで到底納得できないような理想論に偏ったものでした。(中略)
しかしこの裏支配体制では、正悟師には帳尻あわせの権限がほとんどありません。まともに現場の声を聞けば聞くほど、私の葛藤は大きくなっていきました。私はその葛藤・矛盾を解消すべく、浦志は痛い性から生じる現実問題を、松本知子や三女に機会あるごとにぶつけたのです。
しかし、松本家は、宗教の理想論を掲げて、現実の問題に耳を傾けません。私が逆らうと、今度は現場レベルに直接指示を出すのです。松本知子に言い含められ たサマナは私の足を引っ張りました。松本家の威光は強力で、しかもしれが、こちらではわからないようなレベルでやられるのです。まるで陰湿ないじめに近い ものでした。つまり、現場とは別世界の創業者一族が会社を混乱させるのと状況は似ています。
○無間地獄宣言
実務的な話に介入するのはほとんど知子さんでしたが、たまに三女も口出ししてきました。
「あんた一体何やってんのよ!」
「は?」
「あなた権力にとらわれているのよ。いい加減にしなさいよ」
「な、何のことでしょうか?」
いきなり電話をかけてきて、理由も言わず怒鳴ることもしばしばでした。(中略)
しかし私などはまだマシで、三女から「あなた、そんなんじゃ無間地獄行きだね」と宣告されたサマナもいたようです。教団で言う無間地獄とは地獄の中でも最悪の地獄。奈落の底に突き落とされる恐怖なのです。
そんな三女ですが、世間にみせる表の顔は全く違います。彼女は2004年4月に和光大学から入学拒否された際、こう訴えました。
「カルト教団教祖の娘というだけで入学拒否するのは人権侵害。もう教団とは関係ない」
人権侵害を訴えるなら、信者に「無間地獄宣言」などやめてほしいものです。
三女がマスコミや集会で「精神を病んだ父に適切な治療を」と訴えたこともありました。麻原元代表が獄中で精神を病んだ状態なのは事実でしたし、世間にとっ て極悪人でも三女にとっては唯一の父です。何とか救いたい気持ちはわかりますが、ならばやはり「無間地獄宣告」などしてほしくありません。しかし、こんな 私は、すでに「無間地獄」を宣告されていることでしょう。
(2)証言② アレフを脱会した元幹部(村岡達子氏・元アレフ会長)
脱会した「村岡達子」元アーレフ会長の「さらば麻原一家」
(週刊新潮 2011年8月11・18日号)より。
村岡達子氏(61)も、最高幹部(正悟師)の一人であり、アレフの会長職を勤めていた人物で、オウム・アレフ幹部時代に、直接的に麻原家族と連絡を取りながら教団運営にあたったことから、麻原の家族の裏支配の実体験し、よく知る人物です。
この記事の一部にある通り、上祐らが家族と対立した際は、一時的には家族側に立ち、上祐側と対立していました(のちに対立は解消)。そのため、三女を中心人物(の一人とした)麻原家族のアレフ教団裏支配を実体験しており、よく知る人物です。
そして03年、「麻原の影響を排除する」と宣言するのだが、これに麻原の妻や三女(アーチャリー)が猛反発したのだ。そのため、教団はアーチャリー派と、上祐派に分裂し、お互いに激しく対立するようになる。
「上祐さんが、"尊師のことを全面に出さないように"と、在家・出家の両方の信者を集めて呼びかける一方、三女は"上祐のことを放置しすぎた"と後悔していました。麻原一族は上祐さんに危機感を募らせ、実力で抑えにかかったのです」
その結果、上祐氏は、修行と言う名目で世田谷区のマンションに閉じ込められ、見張り番までつけられてしまう。
元団体幹部によれば、その頃、上祐氏が教団代表になったことでピンチヒッターの村岡氏は、「会長」という名の閑職に追いやられていた。もともと麻原の妻に信頼されていただけに、村岡氏は「反上祐」の姿勢をいっそう強めていったという。
ところが04年、上祐氏は監禁されていたマンションを脱出、自分を慕う信者を集めると各地の道場を支配下に置き始める。アーチャリー派との溝はもはや修復しがたいところまで深くなっていた。
「そこからはもう、陣取り合戦みたいになって。尊師の奥さんは、"上祐は教団を乗っ取ろうとしている"と親しい信者たちにメールを送り付けていました。実際、 仙台や船橋といった道場が上祐派に押さえられましたが、アーチャリー派も強かった。何しろ経理やメディアを握っていましたから」
この頃から上祐氏は、新しい教団を立ち上げるために勝手に信者を集めるようになり、いっぽうアーチャリー派に信頼されていた村岡氏は会計責任者を任されるようになる。
(3)証言③ 上祐史浩
上祐史浩の証言を、上祐史浩個人の総括文(オウムの教訓サイト)より掲載します。
○松本家の反対で、教団改革が停止される(2003年後半)
私は改革を進めようとしたが、一言でいえば、信者の麻原信仰と、それを維持しようとする麻原の家族によって、2003年の4月頃からブレーキが掛かり始めた。
教団改革を止めた麻原の家族の中心は、麻原の妻・三女・次女であるが、この辺の動きは、当時正悟師という最高幹部の地位にあった野田成人が、月刊誌(『現 代』2008年01月01日号)で告白している。
それによると、麻原の家族が、私に秘して、彼ら正悟師に連絡をし、私を教団運営から外すための協力を求め られたという。
その結果、麻原家族と、その要求を受け入れた正悟師達の意見の結果として、2003年の6月頃から、私は、教団運 営を離れて、いわゆる籠もった形の修行に入らざるを得ない状況となった(いわゆる世間で上祐の幽閉と呼ばれる)。そして、10月の末からは、一切の教団運 営から退き、信者の前から姿を消す形になった。
今思えば、仮に、この時点で、私が、強い意思を持って、自分の考えを貫いて、教団 運営から身を引かずに、自分に賛同する人たちと共に、自分の道を歩んだならば、後に麻原信仰を脱却していく者達は、より多かったと思う。しかし、その当時 の私は、徐々に変化を始めていたとはいえ、依然として、麻原への依存が残っており、そのために、麻原の家族に従う考え方からも脱却できていなかった。
特に、私が妥協しなければ、教団の中に闘争が起こり、教団分裂に至ることは必然であり、オウムの教義では、教団分裂は無間地獄に落ちる悪業とされていた。また、麻原の家族は、父親譲りの表現で、「戦争だ」「戦う」という言葉で、明確に警告していた。(中略)
そして、家族とそれに従う信者達は、2003年の6月以降、具体的な教団運営において、私に賛同する者や、明確に反対しない者について、「魔境である」、 「悪魔に取り憑かれている」と批判し、教団活動から排斥した。
また、信者に対しては、私達と接触しないように圧力をかけ、接触すれば批判し、活動から排斥 することもあった。
(4)証言④ 宗形真紀子
(現ひかりの輪専従スタッフ、2007年3月までアレフ出家者)
書籍『二十歳からの20年間―――オウムの青春の魔境を超えて』から抜粋と加筆。
○三女から、教団活動を排除され、隔離されるこの時の状況について、公安審査委員会に提出した書面がありますので引用します。
それから一ヶ月ほど経った2003年の6月に、さらに、予想外の出来事が起こりました。
ある日突然、わたしに、麻原家の三女から、携帯電話に電話があり、上祐と一緒に、教団活動から外れ、修行に入るよう命じられました。
上祐は実質、麻原家(三女ら)により監視役をつけられ自室マンションに閉じこもる、謹慎のような処遇となりました。
三女は、携帯電話で、わたしに対し、一方的で、強い口調で怒鳴り続け、以下の内容の話がありました。
・上祐は、悪魔が取り憑いている
・プライド魔境、権力魔境、性欲魔境である
・上祐は、グルに成り代わろうとする野望を持って自らのグル化をすすめ、教団改革と称して、グルの絶対性を否定したり、グルが禁じた「外道」の神社仏閣に行ったり、グルと違う「外道」の教えを説いたりして、グルの意思を外している
・当然、それを精力的に手伝っていた宗形も、同じように、グルの意思を外し、悪魔が取り憑いた魔境に陥っている
・上祐が魔境に入ったのは、宗形のせいだ。
・正悟師はその意見に合意し、全員従っている。
・だから、教団活動を外れて修行に入ってもらう
わたしは、 最初は、その突然の、話し合いの余地のない理不尽なやり方に、まったく納得がいかず苦しみました。
上祐が教団に戻ってくる前は、「崩壊寸前の教団を立て直す ことができるのは上祐しかいない」とすがりつくように頼り、その後、上祐のおかげで、崩壊寸前の教団をなんとか立て直すことができたにもかかわらず、その 恩を仇で返すような行動に出たように感じられて、わたしはとてもショックを受けました。
三女に対し、上記のようなことを述べて、激しく反発しましたが、三女は、以下のようにわたしに言いました。
「宗形も、上祐も、尊師の意思を外している「魔境」に入って、
尊師への帰依が足りなくなっているから、今は修行に入って、尊師を観想し、
尊師にすがって救ってもらうしかない」
その後、すぐに、三女の指示で、わたしが、上祐と連絡を取り合うことのないよう、持っていた携帯電話やお金やパソコンなどを没収され、何も行動が起こせないようにした状態で、上祐が幽閉されることになったる東京・世田谷から、長野県の郊外にある施設へと隔離されました。
長野に移った後も、三女との電話では、わたしが「麻原への帰依」を取り戻すように、麻原に帰依するための「帰依マントラ」を唱えるよう指示があったり、麻原を観想するよう指示があったりしました。
上祐が幽閉中には、三女からの指示を受けた同居する世話役の信者らにより、上祐の日常の動向や、外部との交信を監視され、携帯電話の通話記録までチェックされていました。
○荒木浩が三女と麻原の妻の指示を受けて行動
わたしが教団活動から排除されてしばらくすると、教団の中では、上祐への反発が、いっそう激化していきました。上祐やわたしなどのいないところで「上祐や わたしなどが、いかに麻原の意思を外した魔境であるか」と糾弾する「お話し会」という活動などが活発化していきました。
その中心人物は、信じられないことに、少し前まで一緒に上祐の下で秘書をしていた荒木でした。「どうして荒木君が?」と耳を疑いましたが、以下の荒木のお話会に参加した後、荒木氏に、直接、三女と麻原妻の指示により、行動を起こしていることを確認しました。
A派(反上祐派)荒木浩のお話会の詳細内容(2004年1月17日)
宗形真紀子
2004年1月17日に、アーレフ教団八潮施設(通称光音天)にて行われた、荒木浩(以下荒木)のお話会について、以下のとおり私が見たままの詳細を陳述します。
当時のアーレフ内で、勉強会や説法が行えるのは、オウム真理教の位階制度で、「成就者」とされた、正大師、正悟師、師というステージの者に限られており、 これに当てはまらない荒木が、出家信者に対して勉強会を行うことは、これまでの教団内で極めて異例のことでしたが、荒木は、2003年6月に、上祐が麻原 家三女・松本麗華の指示により、修行という名目で教団活動から外れてから、「お話会」という名の「上祐批判」を、単独で2004年1月17日までに少なく とも20回以上行っています。この事実は、さまざまな場所で、上祐派を除く多くの出家信者が参加しているため、周知の事実となっています。
この異例な指導が容認された背景には、その背後に、麻原家という後ろ盾があることを、正悟師、師の上層部が知っており、異例な行いを容認していたためです。
なお、当時まで上祐の秘書をしていた私は、2004年1月17日当日、当時八潮施設の責任者であった野田成人に対し、正悟師である当人が、異例の荒木のお 話会を、八潮施設の集中修行に入っている信者の修行を中断させてまで容認・推奨したことについて、麻原家の指示だから推奨している旨を確認しています。
2004年1月17日のお話会の内容を、当日とったノートのメモをもとに説明します。
この日、八潮施設一階の通称「男性師部屋」にて、約30人くらいの人数が、2階で行われている修行を中断して、お話会に参加しました。修行を中断してまで行うことは、通常はありません。
荒木は、上祐が、改革という名の下に、いかに麻原を外し、否定し、麻原の意思でない外道の活動を行うという悪業を積んだことにより、上祐の周りの信者とも ども魔境に墜ち、教団に災いをもたらしたかについて説明する年表を参加者に配布し、その内容が麻原家の三女・麗華も同じように言っていることをほのめかし ながらそれをもとに解説を行いました。
その内容は、以下のとおりです。
1 上祐が2002年1月に代表に就任すると同時に、プライド・権力欲の虜となり、麻原になり替わろうとする「グル化」を押し進め、2002年には以下の麻原の意思に反することを行った。
・ 上祐が、アーレフの規約を取り決めた際、麻原を相対化する要素の入ったその取り決めに従わず、「どんな指示でも、犯罪行為の指示でも麻原の指示に絶対的に 従う」と明言し、いくら説得を重ねてもその態度を変えなかった幹部信者Nを教団から除名処分に付したことは、麻原への帰依のあるNを排除した、麻原の意思 から外れた冷たい人間である。
・上祐は、『ファイナルスピーチ』の改ざんの際、重要な「麻原が最終解脱者であり、未来においてマイトレーヤ真理勝者として降誕する」旨の内容を削除したことは、麻原の絶対性を否定するとんでもない悪業だ。今その編集をやり直し始めている。
・上祐は、本来、グルである麻原からしかイニシエーション(エネルギー移入)を受けられない出家信者に対して、その立場を超えて、エネルギー移入を行ったことは、麻原と出家信者に対する不遜な行為である。
・上祐は、オウム真理教時代、麻原が許可していなかった気学、姓名判断、インド占星学などの占いを使ったことは麻原の意思から外れている。
・上祐がインドの聖者ヴィヴェーカーナンダが自分と似ている話などをして、自己を神格化しようとしたことは、麻原に対する不遜な行為である。
・上祐の書籍や機関誌やイニシエーションのポスターにおいて、強烈なインパクトのある大きな上祐の写真を目立たせたのは、麻原を外し、自らが「グル化」の証である。
・麻原が推奨していない、日本のさまざまな神社仏閣や自然に旅したことは、外道の実践であり、麻原の意思から外れている。
・ 上祐は、10月に大黒柱の天啓という魔境のヴィジョンを見、虹を目撃するなどの経験により、プライドや権力欲が増大し、麻原に成り代わってグル化する方向 にはまっていった。その直後に信者全員に、麻原しか受けることのできない「懺悔」を自分が受けるなどの行動を行ったことは、グル化した証拠である。
2 荒木は、2003年1月~4月にかけて行われた上祐の教団改革について、上祐が服役中から秘かに企んでいた「麻原外し・麻原否定」を正当化するためのものだと、以下のような趣旨の内容で激しく批判を行った。
(中略)
このように上祐が行ったことは、「グル隠し」が、「グル外し」になり、結果的に「グル否定」になったという声を、麻原家がかなり言っている。
上祐の行った行為は、麻原を外し、教団の安定を求めるという自己保全の悪業であり、麻原への帰依ではなかった。自分自身も上祐の下で社会融和の名のもと、悪業を積んだことを情けなく思っている。
3 荒木は、2003年に、教団に起こった悪い現象について、上祐が以下の麻原の意思から外れた悪業を積み、その報いが今、教団に悪業の返りとして返ってきて、教団にさまざまな災いがおきていると以下のように強烈な批判を行った。
(中略)
・これからの教団の方針は、正悟師以上のステージの高い方(これは正大師か、麻原家という意味になるので、上祐でない以上は、麻原家のことを示している)といっしょに決めたい。
内容は以上です。
荒木は、その後も、麻原家三女松本麗華や、麻原の妻・松本知子らの指示により、上記のような批判を全国を回って行い続けており、その事実は、アーレフ教団のほとんどの人が参加しているため、周知の事実となっています。
(5)証言⑤ 細川美香
(現ひかりの輪副代表、2007年3月までアレフ出家者)
○三女からの電話(6)証言⑥ 広末晃敏
2003年に入ると、今までのアーレフのやり方では、よくないのではないかということにより、改革がスタートしてきました。これは麻原色をなくしていく、 というものでした。この改革は、初めこそ、勢いに乗っていましたが、改革への反発が生じはじめ、徐々に動きが鈍くなっていき、ついには、頓挫することにな りました。
そして、私にとっては、その頓挫は、突然に起こったのです。2003年の6月の下旬のことです。
その日は、烏山本部に道場のリーダー格の人が集まり、上祐代表とミーティングを行っていました。ミーティングが終わり、その帰り道に仲間の一人と喫茶店に入り、法則の話など、いろんな話をしていたところ、携帯電話が鳴りました。
その電話に出てみると、聞き慣れない声で、
「お 姉さん、誰だかわかる?」と言われました。初めはわからなかったので、「誰でしょう、よくわかりません。」と答えました。そして、沈黙何十秒後に、「もし かして、アーチャリー正大師ですか?」といったところ、「忘れてしまうなんて、お姉さんひどいね」と言われたので、「そんなの無理ないですよ、7年以上話 をしていないわけですから」と言いました。
○三女の「尊師との縁を傷つけたから、このままだと地獄に落ちる」という脅し
アーチャリー正大師とは、麻原の三女で、松本麗華さんのことです。彼女はなにか周りをひどく警戒しているようで、周りに誰かいないかを確認してから、話を始めました。その内容は、まずは、私の個人的な話から始まり、そのことについて、
「お姉さんは、尊師(麻原)との縁を傷つけた。
このままだと地獄に堕ちるから、このマントラを唱えたほうが良い」
と言われました。それは、脅しと同じような感じでした。
○三女から、直接会って話がしたいと呼ばれる
その後、三女は、
「シャクティーパットの影響で、上祐代表の調子が悪い、おかしい」
「上祐代表を修行に入れたい」
「そのために協力して欲しいことがある」
ということでした。
「できれば、直接会って話をしたい」
ということでしたので、指定された場所に向かいました。(中略)
駅に着いて、アーチャリー正大師を待っている間、生きた心地がしませんでした。なぜなら、この6月には、私のとって大きな変化出来事がありましたが、それについても悩んでいる時期でもあり、アーチャリー正大師の話次第では、どうなるかわからない、と思ったからなのです。
「ああ、私はなんてカルマが悪いんだろう」と、半分、泣きそうになる気持ちを抑え、緊張しながら、彼女が来るのを待っていました。
○三女と二人で駅で会う
そして、約7年ぶりにアーチャリー正大師と再会しました。彼女は背が伸びており、女性らしくなっていました。駅の改札を出て、あまり人目につかないところ で、立ち話で2時間くらいだったでしょうか、話を聞きました。その内容は、ひたすら上祐代表の悪口(と思えた)でした。彼女の話は、私が腑に落ちない点が いくつかあったのですが、ここで逆らっても仕方がない、と思い、ひたすら話を聞いていました。
幾分、話をしているうちに、私の緊張も取れていき、十分、話を伝えきれたと思った彼女は、
「お姉さん、だいぶ理解したみたいだね。」と言い、
「次は、もっとびっくりさせてあげる」と言われ、私を次の場所に連れて行きました。
○カラオケボックスで、麻原妻と二女、村岡、二ノ宮が待っていた
再び電車に乗り、とある駅で降り、そこからしばらく歩いて着いた場所は、カラオケボックスでした。そのまま促され、部屋に入ると、そこには、なんと、次女であるカーリー、
麻原の奥さんである、知子さん(現松本明香里)がいたのです。そして、二宮さん、その時、一緒にいた仲間も、すでにその部屋にいました。
私たちは久し振りの再会に、多少の世間話や、昔話をしました。その後、現状の話を少しされました。 そして、まだ、「今から人がここに来るから、呼ぶまで、違う部屋で待機しているように」と言われました。
違う部屋に行き、もう一人の仲間と待っていたら、村岡さんが来ました。彼女はこの成り行きを知っているようで、余裕な感じを受けました。呼ばれるまで、カ ラオケを歌ったり、話しをしていました。しばらくすると、先ほどの部屋に呼ばれましたので、行ってみると、そこには数名の道場活動の師の人達がいました。
○三女からの指示
そして、三女が、上祐代表の問題点をいくつか話をし、最後に、
「今日、ここで話をしたことは、決して誰にも言わないように。
この場所に集まった人達同士でも話をしないように。
上祐代表にも、もちろん言わないように」
と、きつく言われたのです。
○三女から、長男・次男にお布施するよう言われる
さらに、
「せっかくだから、長男、次男に対して、
お布施ができる良い機会だから、みんなお布施したらどう」
と言われました。
私はそれについては、抵抗があったものの、他のみんなが素直にお布施するのを見て、「ここでしないのも、今後、活動がしづらくなるから、形だけでもしておこう」と思い、お布施をしました。(中略)
○三女から、チェックが入る
(中略)そして、次の日の朝、ミーティングで上祐代表に会いましたが、昨日の事がバレたら困ると思い、まともに、顔を見ることができませんでした。
(中略)烏山に着き、上祐代表に会い、私は自分の体験したこと、そこから出た疑念について、質問しました。そして、しばらく話しをした後、違う部屋で待機しているように言われ、待っていました。
そこで待っているとき、三女から何度も携帯に電話が入りましたが、一度も出ませんでした。そして、その日のお昼過ぎ、二宮氏が電話を私に持ってきて、出るように言われたので、出てみたところ、三女からでした。
三女は、私に、「なぜ電話にでなかったか」を聞き、次に、三女に会った人たちがその直後に事故を起こした件について、「上祐代表にその話をしたのは私なのか」と聞かれたので、「そうです」と答えました。
(現ひかりの輪副代表、2007年3月までアレフ出家者)
2004年、三女から私の携帯電話に電話がかかってきました。
少なくとも3度にわたり、合計5~6時間ほどの会話となりました。
その頃の私は、オウム事件を直視しようという上祐に対する批判はおかしいと思って、上祐を擁護する意見を教団内の電子会議室に書き込んだり、隔離されていた上祐とひそかに連絡をとりあったりしていました。その動きを察知した三女からの電話でした。
最初は「お兄さん、私が誰だかわかる?」と問いかけてきました。私は話しぶりからすぐに三女だとわかりました。そして、おおむね以下のような趣旨の話を三女は続けました。
◎あなたは自分が何をしているのかわかっているのか?
◎上祐は教団を乗っ取ろうとしているのだ。
◎上祐はシャクティーパットの影響でおかしくなった。
◎上祐には修行をしてもらい、麻原尊師への帰依を取りもどしてもらわなければならない。
◎だから、上祐に接触してはならない。
◎あなたはエネルギーが強くて周囲の人を巻き込む可能性があるから、そういう動きをしていることが心配だ。
◎上祐に会わないという約束をしてほしい。
◎私から電話があったということは絶対に内緒にすること。
以上の話に対して、納得できない私がいろいろ反論や質問を重ねたからかもしれませんが、三女はその後も繰り返し私に電話をかけてきて、その回数は前記の通り、少なくとも3回にわたりました。
(7)証言⑦ 水野愛子
(現ひかりの輪副代表、2007年3月までアレフ出家者)
○麻原妻と三女の影響力
しかし、麻原の家族を中心として、麻原への信仰が強い者たちが、麻原を外していく上祐氏の改革に強く反対するようになり、6月下旬(2003年)、上祐氏は突然、長期修行入りという形を取った事実上の幽閉、失脚となってしまいました。
それほどまでに、家族、特に妻(松本明香里)と三女(松本麗華)らの権力は強かったのです。
私は、突然、二宮氏に呼び出され「マイトレーヤ正大師が大魔境です」と告げられ、一瞬言葉 を失うほど驚きました。それまで、「上祐教でいいんだ」といっていたほどの改革派で、上祐氏のパートナーとして、麻原色をなくした導きを推奨してきた二宮 氏の発言とはとうてい思えませんでした。
○三女からの電話
その頃、他の師たちは三女に呼び出されて、知子夫人や複数の正悟師たちから、上祐氏が魔境である旨をこんこんと諭されたということでしたが、私は三女から一度だけ電話があり、
「グルとの縁を相当に傷つけている。懺悔した方がよい」
と言われました。
上祐氏はその後10月頃までは月に一度の支部説法会には出てきていましたが、そのほかは一切の連絡を絶たれ、パソコンも携帯電話も取り上げられ、警備と称しての監視が続けられたということでした。
私は上祐氏に傾倒していて同じく「魔境」とされ、9月頃から京都道場での修行を命じられました。それまで担当していた経理やお金、携帯電話も部署のサマナ (オウム用語:アレフの出家者)の管理となり(私が上祐氏と連絡をとらないよう)、私の動向は監視されているのがわかりました。
24時間なにをしたかの報告を、毎日二宮氏にファクスで送らなければならなかったのですが、なかなか心が向かず修行できないでいると、「なんで修行できないんだ」と怒られたり、抜き打ちで視察されることもあり、ますますやる気をなくしていきました。
○荒木浩の上祐批判は、麻原家族の指示
その後、麻原の妻から、村岡氏を通じて、仕事の指示の変更があったりと麻原の家族が仕事の指示をするようになりました。
また、麻原が決めたステージ制度が絶対の教団の中で、かなりの下である荒木浩氏が、数段階上のステージである上祐を批判するお話会、を教団内で大々的でき たのかは、麻原の家族の指示だったからでした。上祐氏排斥は「グルの意思」だとまで言われました。これらの強制的なやりかたは、教団上層部の本質が変わっ ていないと感じさせました。
家族は形式上は脱会してはいましたが、教団の意思決定には大いに関わっていたことは、
サマナなら誰でも知っていることでした。
(8)証言⑧ 吉田恵子
(現ひかりの輪専従スタッフ、2007年3月までアレフ出家者)
2004年9月に、アレフの二ノ宮幹部から、アーチャリー派と上祐派のどちらにつくのか激しく迫られる電話がありました。それに即答できずにいると、激しく怒鳴られました。2 「上祐外し」前後に関する三女著作の虚偽の記載内容
翌日、二ノ宮氏と江藤幹部に、カラオケボックスに呼び出され、わたしの機嫌をとるかのように食事などの接待があり、気持ちがほぐれて来た頃、二ノ宮氏は、三女と電話で話をし、私の様子を三女に報告していました。
その場で、携帯電話が渡され、三女から話がありました。わたしは三女の家庭教師をしていたこともあります。
三女は、
「マイさん(上祐)、魔境なのよ、おかしいの。
修行に入らなきゃいけないのよ」
と言うので、「上のほうでまとまれないのでしょうか?」と聞くと、
「それは無理!」
と言われ、困っていると、
「どっちにつくんだ、すぐ決めろ!」
と怒鳴られ、しばらくの間、怒鳴られ続けました。
一通り三女の怒りが収まったころ、三女は、その場で決められなかった私に対し、
「お姉さん、修行に入ったら?教学(麻原に帰依する教え)をしっかりしたほうがいいよ、
こもって修行して。リトリートにとにかく籠もって、誰の電話もでちゃいけない」
と指示をしました。
その後、わたしの監視役に江藤氏がつけられ、監視されながら、二度ほど、わたしの様子を確認するために、三女から電話がかかってきましたが、私が三女側に付くと即答できなかったために、自分の側に付かないとわかって以降は、電話がかかってくることはなくなりました。
次に、2003年の上祐外し前後に関する、三女の著作『止まった時計』(講談社)の中の、具体的な虚偽の記載について説明します。
◆『止まった時計』p194 母、アレフの現状に興味を持つ実際には、上祐は、アレフ教団において、「麻原色を弱める」ことを提案したものの、上祐自身をグルとすることを提案したことはありません。
2002年10月に、母が出所しました。(中略)一方上祐さんは、2003年1月、緊急に開催された師以上の会合において、「重大案件」を出しました。そ れは、「今までグルの一人とされていた尊師に代えて、マイトレーヤ(上祐さん)をグルとすることについて、各人の決断を求めるとともに意見を聞きたい」と いうもので、父の写真を全部破棄することなどを、上祐さんは求めたそうです。
(中略)けれども、この時点でも母は、上祐さんに「協力する」つもりであり、アレフに関与するつもりはなかったはずです。
麻原・オウムの教義では、グルは麻原だけと決められているからです。実際にあったことは、上祐が行おうとしていた教団改革を、「グル外し」「麻原を外して、上祐がグルになろうとしている」と、三女や妻が主張したにすぎません。
また、妻が行う協力というのがあったとすれば、これは、あくまでも、「上祐が行っていた、麻原の色を薄める改革をやめること」が条件ということにしかなりません。
三女からは上祐宛に、「そうでなければ、家族は、上祐と全力で戦います」というメールが送付されてきました。
◆『止まった時計』上祐さんの嘘 p197これも全く事実に反することです。
2002年11月に、上祐さんは、『覚醒新世紀』という本を出しました。(中略)
『覚醒新世紀』は、父の『生死を超える』文章の大部分を勝手にコピーし、父のポーズを真似した上祐さんの写真を使い、その上父が書いたとわかるところをカットし、まるで上祐さんが体験して書き上げたかのような内容にしてあったのです。
母は、『生死を超える』を各際に父の手伝いをしていたため思い入れが深く、上祐さんが勝手にコピーをしたことに怒りました。わたしも、父が書いたものを、さも自分が書いたかのように振る舞う上祐さんに、ショックを受けました。
上祐さんが家に訪ねてきたとき、『覚醒新世紀』の現物を手にしながら、わたしたちは、その回収を要望しました。しかし、上祐さんは、「わたしのメンツがつ ぶれるだろ!そんなことできるか」と怒りました。また、「救済のためだ」「真理を残すためだ」「それがグルの意思なのだ」と主張し、結局、「在庫にあるも の以外は、出荷しない代わりに、回収もしない」ということで押し切られてしまいました。
そもそもが、上祐が、自分より上に位置づけられた三女に対して、こうして上からものを言うこと自体があり得ません。
また、この件を押し切られたというのも事実に反しており、三女ら家族は、上祐らを教団運営から外すことで、最終的に『覚醒新世紀』を廃刊にしています。
なお、上祐が『覚醒新世紀』に記載したことは、確かに麻原の本との共通点はありますが、それはオウム真理教の修行者の共通した修行体験とした述べたもので あって、麻原の体験を自分の体験として表現したものではありません。また、社会融和の一環として、麻原の名前で、そうした修行体験を述べた本ばかりを使用 することを避けるという意味合いがありました。
こうして、三女を含めた麻原家族の行動は、全て「麻原の帰依」、「麻原と自分たち家族の 教団の維持」ということに主眼が置かれており、この当時の上祐が、依然として麻原への信仰を残していた状態と、このような麻原家族の状態とは、いわゆる 「帰依の度合い」において、相当の温度差があったという事実も示しています。
◆『止まった時計』上祐さんの嘘 p198この点に関しては、上祐が、社会融和の一環として、麻原の説法の一部を改訂したのは事実ですが、それは、例えば、絶対者・完全者をイメージさせる「最終解 脱者」という麻原に用いた言葉を「解脱者」としたり、当たらなかった麻原のハルマゲドン予言に関する記載を削除したりなど、真実に反しており、かつ事件の 原因となった内容を改定・解消したまでです。
(中略)この説法の改変について上祐さんに尋ねると、「説法の改変などしていない。社会融和のため、危険なところをカットしているだけだ」と言われまし た。驚くべきことに、上祐さんは、父が作ったものを自分のものにしていく課程で、「アーチャリーも賛成だと言っている」と言ったそうです。
以前、わたしの名前を使わないと約束してくれた上祐さんが、まさか父の影を隠すために、わたしの名を使っているとは思いもしませんでした。
わたしの意思不在のままに、名前だけが利用され、教団運営に影響を与える、という不自然な状態になっていたのです。
上祐さんの言葉と行動の違いは、わたしを大いに混乱させました。上祐さんは、「尊師のためだ。尊師の教えを広めたくないのか」と言いながら、父の存在を抹 消しようとしたり、「社会融和のためだ」と言いながら、教団を拡大し、アレフを国教にしたいと、わたしに何度も話したりしました。
なぜ彼は、自 分の経験したことを説かず、父の名を使って「グルの意思だ」と言いながら、父が書いたもの、父が経験したことを自分に都合のいいように変えるのだろう。権 力、名声を得たいの?なぜ動揺もなく戒律で禁じられた嘘がつけるのだろう。もしかして上祐さんには、信仰がないのだろうか。もしそうなら、なぜ自分で一か ら新しい宗教を作ろうとしないのだろう。悩んだ末、わたしは彼の言葉ではなく、行動を見ることにしました。
よって、これは、上祐の権力・名声ではなく、真実に反した盲信を続けず、社会に融和してい くためには当然のことであり、三女の記載は、どのような説法の改定を行ったかという具体的な内容を明確にせずに、変えること自体を批判している点で、都合 の悪い部分を隠しており、不誠実であると言わざるを得ません。なお、現実主義の上祐が「教団を拡大しアレフを国教にしたい」などと言うわけもありません。
ただし、この記載の中で、三女が、上祐の麻原への信仰を疑い始めていますが、上祐自身としては、この時点では依然として麻原への信仰が残存していたもの の、家族らの麻原を絶対とする信仰に比較するならば、確かに、上祐の信仰は変わり始めていたと思われます。それが、上祐が、麻原信仰を払しょくして脱会・ 独立する結果となります。
◆『止まった時計』 さようなら上祐さん p199
「もう上祐さんの味方ではいられない」と、わたしの考えが変わった2003年春、母に、
「上祐さんとだけ連絡を取っていたのが、いけないのよ。ちゃんと正悟師たちに会いなさい」と言われました。
母は、(中略)自分が関与しなければ、教団が変わってしまうという危機感を持ったようです。
わたし自身、上祐さんがしたことについて、きちんと伝える必要があると考えました。 そこで、母についていって、正悟師や母の元部下の人たちやオウム人い たころ親しかった人たちと会うようになりました。今から思えば、わたしはこのような形で徐々に、しかし確実に母の動きに、確実に巻き込まれていきました。 (中略)
わたしは上祐さんが、教団を解散するなら、何も口出ししませんでした。むしろ何度も、「本当に社会融和をしたいなら、解散してはどうですか」と提案しては、上祐さんに、「おまえには愛がない」と怒られていたのですから。
わたしがしたことは、上祐さんの行動に対する責任追及であり、娘として、父の作品や宗教的名誉を守ることでした。しかし、アレフの人たちにとっては、父の本のコピーをやめさせようとすること=教団運営に口を出してきたこと、になってしまったのだと思います。
◆母の復権これも、多くの点で、明白に事実に反しています。
2003年夏、再度受験に挑戦しようと決めたあとも、母が教団の人に会うとき、一緒に来なさい、と言われると、行きたくないのに付いていく状態でした。(中略)
結局母に、「もうこれに出れば終わりでいいから」と言われ、これで終わりなら、これまで会ったことがない人に本のことなど問題提起ができればいいと考え、行くことにしました。
わたしが行ったのは、上祐さんに修行に入ってもらうかどうかを検討する、上祐さんや正悟師も参加した、師の人たちの会議のときでした。上祐さんの説法後、 師の人たちで数グループに分かれてディスカッションをし、わたしは上祐さんがどのようなことをしたのか説明しました。(中略)
上祐さんは、2003年10月に長期の修行に入ることとなって、アレフの運営から外れ、以後は正悟師たちの集団指導体制となりました。
実際の多くの信者が体験した三女の言動からして、三女の行動は、母親の動きに巻き込まれたと判断できるものではありません。三女が、母親とは別に、一対一 で多くの幹部に会ったり、電話を掛けたりして、積極的に激しく上祐を批判した事実が、すでに紹介した多くの元信者の実体験の証言から明らかです。
さらに、三女の主観がどうかは別にして、客観的に言うならば、三女が先頭に立って、様々な幹部に働きかけを行ない、それらの幹部は、上祐や妻と違って「全 ての弟子の上」に位置づけられた麻原の子供の一人である三女の影響を、最も受けており、強く印象に残していることが、すでに紹介した多数の証言から明らか です。
よって、この部分の記載は、三女の責任逃れと言わざるを得ず、仮に三女が著書に記載した通りの主観を抱いていたならば、自己を客観視して、他人に対する責任を持つ必要があると言わざるを得ません。
なお、三女が、解散を上祐に勧めたことなどありません。
そもそも、麻原自身が許可していない教団の解散を上祐に勧めることは、家族でも不可能です。三女ら家族の行動は、麻原への帰依に基づき、「麻原の教団を守 る」ことにほかならず、三女の主張は、「社会融和をした教団にするくらいならば解散すべきだ」として、社会融和に反対しているに過ぎないのです。
また、「わたしがしたことは、上祐さんの行動に対する責任追及であり、娘として、父の作品や宗教的名誉を守ることだった」という点に関しては、言葉はきれ いですが、上祐の行った行動の内容を見れば、その社会融和を否定して、麻原の教え・著作の間違った部分・危険な部分を変更することなく維持して、麻原への 絶対的な帰依を守るということに過ぎません。
この後、以下の内容を、追って、本日掲載予定です。
>>④ 2005年・06年の「正悟師外し」への関与
⑤ 補足:2014年前後からの教団への関与
麻原三女『止まった時計』の虚偽② 2000年~裏から教団に関与
2015年05月12日
少し間が空いてしまいましたが、麻原三女・松本麗華氏著『止まった時計』における虚偽の内容について、前回の記事「麻原三女『止まった時計』の虚偽① 99年まで」」の続きです。
2000年になって、受刑を終えた上祐が教団に復帰しました。その後まもなく、三女や次女は、自らの刑事事件で逮捕された結果、「オウム真理教」から「アレフ」と改名した教団の入会手続きは取らず、教団施設に出入りすることはなくなりました。
しかし、その後も、当時の上祐らが依然として麻原に帰依をしており、既にご紹介したオウムの教義や麻原の獄中からの指示を守らなければならないために、日 常の実務の運営は別として、宗教的に重要な事柄に関しては、以前と変わることはなく、上祐らの教団内の幹部が、教団外に住む三女を中心とした家族の合意を 得る形で継続しました。にもかかわらず、三女の著作は、全体的に、三女は「アレフ教団運営に関わっていず、上祐や母(麻原の妻・松本明香里氏)に利用された」としていたり、「上祐とのやり取りは、個人的な友人関係によるものだ」としていますが、それは全く事実に反しています。
これらのやり取りは、三女も熟知している「麻原の家族を全ての信者の上に置く」とした麻原・オウムの教義や、麻原の獄中の指示に従った教団運営の原則であり、上祐らの義務だったのです。
以下に、三女の著作の記載の中で、具体的に事実に反する記載の事例を挙げて説明します。
◆『止まった時計』上祐さんの復帰 p157まず、当時の上祐が、三女を「アーチャリー」と呼び捨てにすることは決してあり得ませんでした。どんな信者も、そんな呼び方をすることを、決して聞いていません。
1999年12月29日、広島刑務所を出所した上祐さんが、教団に戻ってきました。出所後、上祐さんは、横浜道場にわたしを何度も呼び出しました。
「と くに印象に残っているのは、サマナをたくさん集めた中、「アーチャリー、ちょっとおいで」と、隣に呼び寄せたかと思うと、突然わたしの手を自分の手ととも に高くあげ、「二人の正大師は、今後争うことはないことをここに誓う。これからは仲良く力を合わせていく」という旨の声明を発したときのことです。上祐さ んはなぜこんなパフォーマンスをするのかと、釈然としない気持ちのまま座っていました。
当時の上祐は、まだ麻原の帰依から脱却しておらず、信者も麻原に帰依していましたから、仮に呼び捨てなどにすれば、「皆が驚愕する事態」を招きます。先ほ ど述べたように、アレフ・オウム真理教の教団内は、麻原の定めたステージ制度という位階制度の中にあり、麻原が、「子供たちを、すべての弟子の上に置く」 と定め、従う体制にありました。よって、上祐は常に「アーチャリー正大師」と呼ぶ以外にはありませんでした。
次に、他の上祐の発言や行動も、三女が記載した通りではありませんが、二人の正大師が信者の前で仲の良い所を見せたという事実は、一度ほどあったと思います。しかし、それは、上祐の記憶では、実際には三女の方が(少なくとも三女も)提案したことでした。
というのは、仲が良い様子を見せる重要性は、上祐が戻る前の教団の運営の混乱に自らの責任がある三女の方が、痛感していたことだからです。
上祐が戻る前の教団の上層部は、麻原の家族(三女と二女、長女)の間での対立により分裂し、さらに、家族と、教団幹部の「正悟師」の間の分裂で、意思決定機能が麻痺するほどの状況にあり、当時数百人いた教団の内部は大変な混乱状態にあったからです。
そして、この対立の延長上で、上祐が復帰した後まもなく、いわゆる「旭村事件」が発生し、三女が長女と激しく対立し、長女と長男の住む住居に三女・次女らが信者と共に、不法侵入して逮捕されたという事実がありました。
◆『止まった時計』上祐さんの復帰 p157まず、ここでの「長老会議」とは、前に述べたように、麻原が不在の状態において、麻原が「獄中メッセージ」で指示した、オウム真理教教団の意思決定機関であり、麻原の家族と高弟で構成される会合のことであり、そのリーダー(座長)は、三女が任命されていました。
「いつの間にか、長老会議は消滅し、上祐さんの出所後、一週間もたたずに、上祐さんが、教団運営を取り仕切るようになりました。」
次に、「いつの間にか、長老会議は消滅し、上祐さんの出所後、一週間もたたずに、上祐さんが、教団運営を取り仕切るようになりました。」というのは明らか に事実に反しています。その当時は、上祐と他の最高幹部(正悟師)と三女・次女が、密かに、上祐が滞在する横浜支部に集まって会合を開いていました。
出所直後の上祐がマスコミに囲まれて身動きが取れないためでした。よって、一週間もたたずに、上祐が教団運営を取り仕切ったことはありません。
ただし、「長老会議が消滅した」かのような状態は、その後まもなく訪れました。
それは、
① 三女・次女が、上記の旭村事件で逮捕・拘留され、拘留を逃れるためにも、以前のように公には教団に関与しにくくなったこと(結果として、当時、発足したてのアレフには入会しなかった)、
② 長女も別件で逮捕されると共に、健康問題で教団に関与できなくなったこと
などが原因です。
すなわち、上祐が出所したからではなく、家族の方が違法行為によって、自ら崩壊していったのです。
しかしながら、その後も、「高弟と家族で話し合って決める」という獄中の麻原が「獄中メッセージ」で指示した体制は、麻原・オウムの教義において家族の了解が必要な重要な案件に関しては、維持されました。
具体的には、教団の中の家族以外の上層部をまとめる立場の上祐と、教団を、形の上では出ざるを得なくなった家族の筆頭である三女が、密かに連絡を取ることによってです。こうしなければ、「麻原への帰依」に反することになるからでした。
◆『止まった時計』上祐さんの復帰 p157これが本当ならば、この3年後の2003年から、三女が先頭に立ち、上祐が勧める教団改革を止めるためにアレフ教団に深く関与して、上祐をアレフ教団の運 営から外す指示を出し、上祐が運営から外れることはなかったはずです。この事実は、すでに、野田成人氏、村岡達子氏、麻原四女など、その他大勢の人々が証 言しています。
「16歳のわたしは、「これで果たせもしない責任から解放される」とほっとしていました。これからは、心配だった教団やサマナのことは上祐さんにすべてまかせたらいい。」
◆『止まった時計』 シガチョフ事件 p187これは、個人的な友人関係のものからではなく、「麻原の家族の了解が必要なこと」に関して、当時の家族の筆頭格である三女と、どうしても連絡を取る必要が あったというのが事実です。上祐が個人的に三女に関心があるかのような印象を与える記載は、三女の主観によるものです。
「わたしは教団を離れた後も、教団の運営には関わらないものの、個人的な友人関係は大切にしたいと考えていました。そのため高校に通い始めてからも、上祐さんとは、ときどき電話で話をしていました。」
この部分についても、上記のとおり、教団運営で重要なことは、家族の了解が必要 なために、上祐が三女と連絡を取っていたのが事実です。そのため、今の時点では記憶が定かではありませんが、上祐が、教団内部の幹部に、三女ら家族の了解 があるかを尋ねられたことは、多くはありませんが、時々はあったはずです。
◆『止まった時計』 シガチョフ事件 p188
あるとき、教団にいる友人から、上祐さんがわたしの名前を使い、「アーチャリーが賛成している」と言って、教団運営をしているという話を聞きました。内容 も寝耳に水だったたえ、上祐さんに、「わたしの名を使うのはやめてください。教団運営に関わるつもりはないと何度もお伝えしているはず。そんなことをする なら、もう電話でお話できません」
と言うと、彼は、「誰がそんなことを言ったんだ。そんなことはしていないが、わかった。アーチャリーの名前は、 今後も使わない」と約束してくれました。上祐さん以外との連絡がほとんど絶たれている状態だったわたしは、彼の言葉を信じ、約束が守られているかどうか は、確かめませんでした。」
よって、この三女の記載は、「三女の了解があったという事実を、他の信者には隠してほしい」という彼女の要望があったというだけの話であって、了解の事実が存在しないのに、上祐がその名前を使ったということでは決してありません。
◆『止まった時計』シガチョフ事件 p189この話は、その前提が全く間違っています。
上祐さんとの電話の内容ではきり覚えていることが二つあります。一つは、ロシア支部のサマナであるシガチョフさんについて、
「ロシアのシガチョフが、日本で尊師の奪還を目的に、テロを起こすかも知れない。シガチョフはアーチャリーの話だったら聞く、と言っている、何とかしてくれないか」
という連絡でした。
それを聞いて、わたしは、シガチョフさんとの面識はないし、教団との関係もないのにと困惑しました。それでも、その人が事件を起こしてしまって、本人を含 め、多くの人が苦しむのを見たくないと思いました。(中略)結局、計画の中止を呼びかけるビデオ撮影に応じることにしました。
上祐が、自著である『オウム事件17年目の告白』(p187)に掲載していますが、シガチョフによる父親である麻原の奪還計画について、日本人の麻原のあ る高弟を通して聞いた三女が「なんと帰依の深い弟子がいるのか」と称賛し、それがシガチョフに伝わったという事実があったのです。
これは、上祐が、三女に直接確認しています。そのために、上祐は、三女に、前言を否定・撤回させる必要が生じたので、それを依頼したのでした。
そうした事情がなければ、三女のビデオメッセージを、シガチョフに送る必然性は全くありませんでした。仮に、麻原の家族という権威を使いたいということで あれば、麻原によって三女よりも上に位置づけられていた、四女や長男・次男の方に依頼する方がより有効だったと思われます。
こうして、この部分の三女の記載は、自分の奪還計画に対する間違った行動を(思い出すのが嫌なうちに)全く忘れてしまったのか、それともそれを覆い隠すために作られた重大な虚偽であると思います。
◆『止まった時計』シガチョフ事件 p189こうした事実は、全くありません。そもそも、長男・次男は、麻原・オウムの教義では、「リンポチェ猊下」の称号と共に、家族を含めた全ての弟子の上に位置づけられており、「麻原の獄中メッセージ」では、長男・次男が後継「教祖」に任命されています。
上祐さんの電話で、はっきり覚えているもう一つの話は、弟たちを教祖としてアレフに戻したい、と言われたことです。この話にわたしは仰天し、怒りました。 上祐さんは、「猊下(弟たちのこと)を信仰の対象に戻すだけだから、猊下方はアレフ内に入らないでいいし、アーチャリーも関わらないでいい」「あとは任せ てくれたらいい」と言いました。
アレフに入会せず、社会で生きていこうと苦労しているわたしたちを、上祐さんはどのように考えていたのでしょう か。まるで、アレフ内の人事異動のように、当然のように上祐さんは言いました。わたしは怒りを抑えながら、「もう弟たちはアレフに属していないし、普通に 育ってくれたら良いと思っている。いい加減にして下さい!」と伝えました。
よって、この当時、麻原に依然として帰依している状態にあった上祐が、長男・次男を教団に戻すとか、戻さないといったことを自分で決める権限は到底ありえず、そのようの発言をすることもあり得ません。
なお、「長男・次男を教祖とするように」という麻原の獄中メッセージの内容を実行し、信者たちに指示したのは、ほかでもない三女自身でした。97年に、三 女は、集まれる信者たちを集め、長男・次男を連れて、信者たちの目前で、これからは弟たちが教祖となること、「猊下」と呼ぶようにということ、麻原を開祖 とするように、という指示を出しました。
実際には、三女自身が、上祐に対して、「10年は、あなた(=上祐)が教団を主導する時代よね」という主旨のことを言ったことがあります。これを言い換えるならば、長男・次男が成人するまでということです。
また、麻原の妻が、三女と共に、上祐の教団改革にストップをかけてきた時は、三女が同席する中で、妻が「あなた(上祐)は教団を預かっている立場であることを忘れないように」などと言って、いずれ長男・次男ら家族が教団を主導することを示唆していました。
こうして、麻原の家族が、麻原色を薄めようとした上祐らの教団改革を止めようとした動機としては、家族の元に教団を維持したいという一面があったと思われます。その動機は、三女より、麻原の妻が一番強いように思われましたが、その家族の動きに三女も同調していました。
以上のことから、ここで三女が書いているように、上祐が、長男次男の復帰の話をいきなりしたので強い憤りを覚えたという状況は、あったはずがないのです。
実際に、当時の上祐が持っていた考えとしては、①当面は、長男・次男が教団に復帰することは社会環境からして難しいが、②本人が希望する限りは、永久に復 帰しないことも考えられないため、③復帰の時期・形をよく考えつつ、まずは事件を反省・謝罪して賠償を行ったり、麻原色を薄める教団改革が必要である、と いったものでした。
では、なぜ、三女は、こうした話をするのでしょうか?
そのカギは、実際に10年以上たった、最近のアレフの状態に関係すると思われます。
というのは、2015年の現在、麻原の妻(三女の母)や、最高幹部である二ノ宮らが主導するアレフの主流派は、この麻原の獄中メッセージによる指示に従って、教団に戻る気持ちがある次男を、教団に戻そうとしていると言われています。
一方、三女・次女・長男は、次男の教団復帰に反対であり、長男は自らの教団復帰を否定しています。そのため、この両グループの間で、すなわち、家族の間で、教団が分裂し始めており、主流派が、三女派の信者多数を除名しているとされています。
麻原の妻・二ノ宮からすれば、三女の、麻原が後継教祖とした長男・次男の教団復帰を認めないという考えは、麻原への帰依に反することであると、三女を批判しているようです。
一方、三女の考えに共鳴する信者は、麻原の長男・次男の後継教祖の指名は、1996年に破防法が適用される可能性があった際に、それを回避するための方便 として、麻原が教祖を降りた際のものであって、破防法適用が回避された今の時点では当てはまらないことだと主張しています。
この背景には、要するに、「グルは尊師(麻原)だけ」という考え方です。長男次男=猊下よりも、麻原に、永久の教祖・グルを求める心情の強い人たちです。
しかし、重要なことは、これは現在のことであり、上記2000年の当時は、三女を含めた家族には、永久に長男・次男が、永久に教団に復帰しないという考えはなかったことは、既に述べた通りです。
ところが、現在の三女は、次男の復帰のために、母親たちと激しく対立する中で、以前は復帰することを考えていたということさえも、認められない状況なのかもしれません。
こうして、この部分の三女の虚偽の記載は、
①上祐の教団改革を止めたのは、家族の復帰のためではないという予防線を張りながら、②上祐がアレフ時代に、麻原色=麻原家族色を薄めようとした事実を活用し、自分は以前から長男・次男の復帰に強く反対してきた、と主張したいのかもしれません。
◆『止まった時計』 シガチョフ事件 p190
高校1,2年(2001年~2002年)のころ、ある日、接見禁止が解かれた人と接見しに、東京拘置所に行った帰り道、ひどい剣幕の上祐さんから電話がかかってきました。
「なんで勝手に接見に行った!」「アレフの人間には、接見を禁じているのに、アーチャリーたちが接見をしていると、首尾一貫しなくなるだろう!」
と怒鳴り続けました。わたしはアレフの人間ではないのに、どうしてアレフの決まりを守らないといけないのか、理解できませんでした。
・・・ 上祐さんだけでなく、教団全体が、「松本家は、対外的な問題のために、関わらないふりをしているだけで、本当は教団の構成員」だと思っていた節がありま す。しかし、わたしたちは、実際に教団を離れた折、アレフに入会もせず、支援も受けず、社会の中で、自分の意志をもって生きていました。
この記載の通りの事実はありません。
繰り返しになりますが、当時の上祐が、三女に対して、こうした「上から目線」で対応することは、オウム教義上できません。
確たる事実としては、①上祐がいた際のアレフは、教団内の信者に関しては、社会的な問題が起きないように、事件を反省していない拘留者と接見は自粛していたこと、②三女は、死刑囚を含め、多くの拘留中の元幹部と接見を繰り返したことです。
その一方、上祐と三女の間で意見の違いが表面化して、上祐が三女に面会の自粛を(怒鳴って命じたのではなく)お願いしたことがあったかは、今となっては定かな記憶がありません。
しかし、今年の3月の読売新聞は、三女が、裁判では麻原を厳しく批判しているはずの元オウム幹部の林泰男死刑囚が、三女との手紙のやり取りをし、その中で、三女に対して、麻原の延命のために、再審請求をするように促しているという報道をしました。
三女は、この記事は、自分が麻原の延命活動をしていると主張するものだとして、それを不服として、訴訟を提起したようです。そして、読売の記事の正当性はともかく、上祐の接見自粛は、こうした社会的な批判を招くことを避けるものであり、適切なものだと考えられます。
次回は、以下の内容となります。 ⑥ まとめ:三女が虚偽を述べる理由、疑い、問題、評価ほか
麻原三女『止まった時計』の虚偽① 99年まで
(2015年05月12日http://hikarinowa.net/kyokun/newsblog/1999/99-1.htmlの記事)
『止まった時計』(講談社)においては、残念ながら、事件後のオウム真理教や、その後継団体のアレフにまつわる出来事に関して、多数の虚偽の内容が含まれていました。
この件は、報道機関からも、私たちに問い合わせがあり、その一部はすでに報道されました(「週刊新潮」5月7日・14日号、p43)。
ただし、報道されていない部分もありますので、以下にお伝えします。
まず、麻原三女である松本麗華氏の、時代ごとにおける基本的な位置づけについてです。
① 長男・次男が生まれる前まで
三女は、麻原に長男・次男が生まれる前までは、「麻原の後継者」とされ、麻原の指示で、上祐を含む「全ての弟子の上」に位置づけられた麻原の子供(「皇子」)の一人です。
② 95年以降の麻原の不在の教団
95年以降の麻原の不在の教団でも、麻原の獄中の指示に従って、その集団指導体制「長老部」の中心人物(座長)に指名され、教祖後継者とされた長男・次男がいまだ幼少であるために、教団の事実上の「最高権力者」の立場にありました。
そして、「子供だから何もわからなかった」とした三女の著作の主張とは異なって、三女自らも、その麻原の指示通りに、強力な指導者としてふるまった確たる事実があり、私たち当時の多くの信者たちは、それを繰り返し、実体験しています。
その「麻原の獄中メッセージ」を見れば、三女が、上祐よりも上の立場であることが、明々白々となります(詳しくは後述)
③ 2000年
この(2)の事実は、2000年になって、受刑を終えた上祐が教団に復帰し、三女が、教団を形の上は去った後も続きました。
日常の実務の運営は別として、教団の宗教的に重要な事柄に関しては、当時の上祐らが依然として麻原に帰依をしており、麻原の指示を守る必要がある以上は、変わることはなく、上祐らの教団内の幹部が、三女の合意を得る形で継続しました。
これは、三女が著作で主張するような、上祐との個人的な友人関係ではなく、「麻原の獄中の指示」を反映した、教団運営の原則であり、上祐の義務だったのです。
実際に、2003年以降、三女ら家族が、社会融和路線を進める上祐を教団運営から外し、さらには、野田・村岡といった幹部も教団運営から外していく結果となりましたが、これは、三女ら家族が、上祐らよりも上の立場にあったことを明白な証拠です。
私たち当時の多くの信者たちも、それを実体験しています (詳しくは後述)。
④ 2014年頃
ただし、遅くとも昨年2014年ごろから、三女が事実上の最高権力者という状況に変化があったことは事実です。
(変化の開始の時期は正確にはわかりません)。
それは、長男・次男がいよいよ成人し、そのうちの次男が教団に戻る意思があるとされているからです。
そのため、三女が教団全体を仕切ることができない状況が形成され、今のアレフは、三女や長男の考えに賛成する者と、次男や麻原の妻の考えに賛成するものとの間で分裂状態にあるとされています。
よって、三女の著作の主張とは異なって、
①三女が、長らく事実上の最高権力者であった事実は、ゆるぎないものであり、
②今後は、三女は、アレフ全体はコントロールすることはできないと思われるものの、三女・長男の考えを支持する者には、従来同様の影響力を有し続ける可能性があります。(詳しくは後述)。
③ただし、上記の事実が、公安調査庁が、三女を、教団の役職員と認定したことまで正当化するかは疑問で、2000年以降の、三女の教団の外からの関与は 定期的ではなく、オウムの教義で、麻原の家族の同意・意見が必要な場合や、教団の主導者等に関して、三女らが関与したい時に限られていたと思われます。
なお、「麻原の獄中メッセージ」は、本年3月に、大々的にテレビ東京が、番組内で取り上げられており、当局も把握しており、後にご紹介します。
以下に、その事実を、証拠をもって記します。
【1】麻原の「獄中メッセージ」(95年・96年)
以下が、95年、96年頃の、麻原の「獄中メッセージ」の該当箇所で、
・麻原に替わる教祖を、麻原の長男・次男とすること
・教団運営体制を「長老部」とし、その長を、三女とすること
などが記されています。
※なお、以下の内容は、正真正銘の麻原の獄中メッセージであることは、すでに獄中メッセージの件を報道したテレビ東京のスタッフが、その独自のルートで入 手したものと同じであることを確認するなどして、確かめています。なお、一部個人情報はプライバシーの関係上、●●で削除しています。
96.6.5
・教祖――長男=鏡暉・リンポチェ猊下
次男=璽暉・リンポチェ猊下
カムトゥル・リンポチェ、自分の子供達もリンポチェである
チベット政府への配慮からパンチェン・ラマの名前は使わない
・教団運営
ドゥルガーから始まる子供達、正大師・正悟師をミックスして
長老部を設ける
全員が参加して教団運営に当たる
長老部から排斥する場合
・本人の意思による場合
・派閥争いを避けるため一人でも反対したら不可
だれかをやめさせる場合は全員一致で決定
座長――アーチャリー正大師
さらに、以下の「獄中メッセージ」を見ると、麻原が、当時社会融和路線(ソフト路線)を取ろうとした上祐の方針・権限を否定し、三女らを上祐らの上においていることがよくわかります。
各位 ●●弁護士経由のものをお送りします。
10/13
アーチャリー正大師を(→の)補佐を3人(アキテル、ギョッコウ、●●●)
(中略)
上祐の権限は消滅した
10/16
ジョウユウの方針はいかん。もっと強い態度で教団の運営管理にあたるべきである。
上九から引き上げるようなことは絶対にいけない
ソフト路線などは一切してはいけない
崩壊に追い込むために益々追い打ちをかけて攻撃してくる
自主解散はずっと後のオプションとしては考えてもよいが、すぐ発表すべきではない、
とジョウユウに伝えていたはず。
警察や公安への陳情など何の効果もない。
教団からジョウユウの色を消すように
さらに、三女の著作の主張とは異なって、この獄中メッセージでの指示に基づいて、三女は、教団の運営のために、獄中の麻原とのやりとりをしています。
以下は、その具体的な事例です(なお、三女の著作の中にも、三女の宗教名が、「山の娘」であると記されています)。
96.3.28
(中略)
●山の娘(三女):最近死ぬサマナが多いが、これは神々の意思でしょうか。
愛する娘へ(※麻原の三女への回答)
オウム真理教は、新しい時代へ一歩足を踏み入れたように思われます。そして、その過渡期において、エネルギーのひずみが完全に修復されていないのではない でしょうか。真に高い霊性を求める人たちの集いに確実に変容していますよね。この状態だと、一般の人が求めている宗教の最高のレベルのニーズについては、 あっというまに達成され、生きるカルマが切れて死んでいっているように思われます。したがって、生きる死ぬの両方についてこだわらず、淡々と限界の修行を 続ける、あるいは、個人の能力に応じて限界の修行をさせるだけで、あなたは立派な役割をしていることになると思われますので、しっかり頑張ってください ね。
●山の娘(三女):
●●●●●●●●●師が陽神で尊師に会いに行ったと言っているが、それは本当か。
(中略)
神の世界に入ることは素晴らしいことですが、神の世界は非常に広く、また低い世界から高い世界まであります。この期間中にはっきり私が認識できたのは、 ●●●●●●●●●だけでした。したがって、陽神が出たとするならば、何度でも再現が可能になるはずだし、その人が観想した神の形状は、意図した人の心へ 投影できるはずです。これをためさせてみてください。またこの時、クンバカは少なくとも5分以上になり、五大エレメントのコントロールその他も簡単にでき るはずですので、ためさせてください。
上記のように、三女は、麻原不在の教団運営において、上祐ら幹部たちよりも上の権限・権威を持ち、そのようにふるまっていました。
しかし、『止まった時計』「第三章 事件と父の逮捕」、「第四章 唯一の正大師となって」の中の記載は、上記の前提が抜けた状態での記載となっていました。
【2】観念崩壊セミナー(96年)
特に、p119の96年中頃に行われた「観念崩壊セミナー」においては、昨日発売された「週刊新潮」に、当時を経験した宗形のコメントが掲載されているように、三女の、監修・指示のもとで行われていたものです。
以下は、経験者の証言です。
私が参加した時、セミナーが進むなかで、三女が、「みんなのやる気が感じられない」ということで、そのときの参加者の人たちを一列に並べ、三女が、1人ず つ「やる気あるのか!」と聞きました。それに対して、参加者は「やる気あります」と答えたのですが、その返答を聞き、三女は参加者を二列に分け、一人一人 確認していきました。
そして、最後の1人まで、「やる気あるのか!」と、確認し終わった段階で、二つの列のうち、一つの列の人たちは「やる気が感じられない」ということで、三女が、彼らを、施設の外に出すように指示しました。
セミナーの際は、基本的に、修行監督はいましたが、監督は何をするにつけても、まずは三女に確認し、三女に確認した内容の指示が出されるという状況でした。
セミナーの最後に、セミナーの「卒業認定」というのがありましたが、それは、三女の目前で、「決意文」を、1人1人が読み上げ、「心がこもっている」と、 三女が感じれば「合格」で卒業でき、三女がOKしなければ、「不合格」で居残り組になりましたが、やはり最終的には三女が決定していました。
同じ回に参加した人たちの中には、教団の戒律を破った、ということで、長時間の極限的な「縛り蓮華座の修行」(両足を交差して、座る厳しい座法)を課せら ている人がいて、彼らは、痛みのあまり叫んでいました。後から、彼は、三女の精神的な追い込みへの負荷と、足を縛り続ける痛みの余り泣き叫んだ後、叫び声 がうるさいと、猿ぐつわをされて何かに縛り付けられ、そこで自殺を計り、気絶寸前で、三女から平手打ちでたたかれ、意識が戻ったということでした。
その人は、脱会して、自分のブログに、そのときのことを載せています。
「観念崩壊セミナーで、自殺を試みた 元P氏のブログ」
http://ameblo.jp/ommanipemehum/page-7.html
●宗形真紀子総括文「麻原彰晃とわたしの魔境」より
はじまりは、ある意味子どもの思いつから始まったようなもので、三女の「大きな施設があるうちに、信者が都会で煩悩的になって修行できなくなる前にみんな を引き上る手助けをしたい」という思いに、一般の「自己啓発セミナー」の体験者の経験が合わさって、効果がありそうなのでと試しに企画されたセミナーでし た。
私が監督としてかかわった初期の頃は、「解脱のために観念を崩壊する」ということで、「まずは、監督自らがそのようにしなければならない」という三女の指示に基づき、皆の前で例えば次のようなことを行いました。
顔を醜く歪ませて、うめき声や叫び声を上げながら狂人として振舞ったり、当時は一見しとやかな女性に見えた私は、女を捨てる必要があると言われ、口汚い言葉で罵声を発し、ヤクザのような振る舞いをしたりしました。
三女の指示で、男性は、女装させられ、サティアンの前にいる警察官の前で踊らされたりしました。
最初はけが人などが出る内容ではありませんでしたが、参加した人の話を後から聞くと、どんどんエスカレートしていき、負傷者や、意識を失いかけ死にかける者などが出、その結果、脱会者も多数出るという悲惨な結果のものとなったのでした。
(中略)
例えば私も一緒になって行った「突っ込み」と呼ばれたものでは、数人で1人の人を取り囲み、罵声を浴びせ、対象となった人の弱点や問題点などのネガティブ な面を責め続け、本人の悪行についてすべて告白させ、本人が涙を流して懺悔するなど、三女が「いい」と、許可を出すまで続けるということを行いました。
大の大人の男性が涙を流すまでですから、かなり深層心理をえぐるような厳しい内容や、人格の尊厳を傷つける恥などについて責め続けていました。
ところが数日経ったとき、その矛先が今度は参加者でなく、監督の1人である私に向けられ、三女と他の監督たちから、罵声・軽蔑・無視されるなどのことが行 われ、三女から、「お前はどうしようもないヤツだ」と、監督から排除され、その後、何ヶ月にわたり無視され続けるということがありました。
(中略)
このセミナーで三女は出家信者たちから、恐怖を伴う神格化をされました。セミナーの課題は三女が出し、その課題をこなせたかどうかの判定も三女の独断で す。三女がOKしなければ苦痛と恐怖の伴う尋常でない修行と呼ばれるものを続けなければなりません。三女に気に入られなければならないのです。
三女を「三女のグルとしての力量を知った」「マハームドラーをかけて後輩弟子を導くことのできるステージ」と言って賞賛し、さらに神格化する人がたくさん 出ました。一方、脱会させないために行ったセミナーであったはずなのに、三女に恐怖してそのまま脱会した人もたくさん出る結果となりました。
●吉田恵子(ひかりの輪指導員)
わたしが参加したセミナーでは、大の大人が、「傲慢だ」ということで、車で遠くに連れて行かれ、一人で、何も食べずに何日か後にふらふらになって戻ってくる、ということがありました。いつも強気のその男性は、おびえた様子になっていました。
また、傲慢だということで、縛り蓮華座を長時間課せられた人たちがいました。すべて、三女が監修していました。
●小林由紀(ひかりの輪スタッフ)
観念崩壊セミナーに参加したわたしの知人の女性は、「縛り蓮華座」を続けさせられ、足がうっ血して、毒素が内臓に回り、救急車で運ばれる危険な状態になり、その後、足をびっこをひく身体障害者となってしまいました。
●内容の全体
「ひかりの輪 団体総括」より
悪天候の中、連日屋外に放置して食事を与えない、食事を与えなかった状態でいきなり無理やり大量に食べさせ、吐いたら吐いたものをまた食べさせる、水を浴びせ続ける、単純な運動を長時間繰り返させる等の、行き過ぎた「修行」が課せられたのでした。
その結果、救急車で搬送され、入院して両足を切断しかけるほどの重篤な症状になった者、その後も足に後遺症が出て足を引きずることになった者、転倒して頭 を打って負傷した者、酸素吸入が必要な状況になった者、意識を失いあやうく死にかけた者、断食後の無理な食事で胃の手術を受けることになった者、熱射病に 罹患する者が出るという異常事態となりました。
以上が、96年頃までの状況です。
次回は、以下の事実について掲載します。
>>② 2000年~裏から教団に関与
⑤ 補足:2014年前後からの教団への関与
麻原家族の教団関与の事実に関して(最近の三女のメディア露出に伴い)
1.複数の証言があります
上祐史浩らひかりの輪スタッフが10年以上前にアレフにいた時から、麻原の三女と妻等の家族が、アレフ教団の運営に関与・介入していた事実については、野田成人氏(元アレフ代表)や村岡達子氏(同じく元アレフ代表)らの複数の第三者の証言(書籍・雑誌など)を集めた資料があります。
>>「麻原家族の教団関与の実態」目次・まとめページ
2.警察による証拠発見の報道があります
さらに、その後も、2012年に、アレフ教団が、麻原の三女や妻らに教団運営に関して「お伺い」をしたメールが強制捜査で発見されたという読売新聞の報道があります。
>>「アレフ信者、松本死刑囚の妻子に指導仰ぐ文書」の記事(読売2012年1月24日)
麻原三女・松本麗華氏のメディア露出は、まるで20年前・オウム信者だった頃の上祐の姿を見ているかのようです。
客観的に見ると、無理に無理に麻原と自分を守ろうと発言し、社会の注目を浴びた後に、「嘘つき」としてぼろぼろになるのではないでしょうか・・・・・・
傷が浅い今のうちに、思いとどまってくれたらと願ってやみません。
すでに、多くの方々を巻き込んでいます。
歴史から学ばぬ者は歴史を繰り返す、そうしたことを考えさせられます。
「麻原家族の教団関与の実態」目次・まとめページ
「麻原家族のアレフ教団関与(裏での支配)の実態」
カテゴリーの目次ページです
麻原の家族は、これまでのアレフ教団に関与(裏支配)の実態を隠蔽し、社会を欺いています。
>>「アレフ信者、松本死刑囚の現在、アレフは、麻原の家族に妻子に指導仰ぐ文書」(2012年1月24日読売新聞)
>>アレフが賠償契約締結を拒否する理由
そこで、なぜ、麻原の家族がアレフ教団の運営に関わる(支配する)ことが問題なのか?について述べておきます。
では、麻原の家族によるアレフ教団への関与・裏支配の実態について、アレフを脱会した元幹部信者の証言をご紹介します。
※以下の青いリンクから各自の証言の記事にリンクされています。
1.>>麻原家族の裏支配の証言① アレフを脱会した元幹部(野田成人氏)
野田成人氏は、アレフの幹部時代に、直接の、麻原家族との関わりがあったことから、麻原の家族の裏支配の実態を、よく知る人物です。
2.>>麻原家族の裏支配の証言② アレフを脱会した元幹部(村岡達子氏・元アレフ会長)
2011年の6月に、村岡達子氏がアレフを脱会していたことを、8月に出た週刊誌で知りました。
脱会した「村岡達子」元アーレフ会長の「さらば麻原一家」
(週刊新潮 2011年8月11・18日号)
との見出しの記事でした。
村岡達子氏(61)は、アレフの中の位階制度では、「正悟師」という教団に数人ほどしかいない最高幹部の立場にあり、アレフの会長職を勤めていた人物です。
この見出しにあるとおり、村岡氏は、2007年にわたしたちがアレフを脱会するまでは、麻原の家族の側に立って、上祐側のわたしたちと対立していましたので、当然のことながら、麻原家族の、アレフ教団裏支配の実態をよく知る人物です。
3.>>麻原の家族が、教団を裏支配するようになる以前の経緯
麻原の家族が、2003年から、アレフを、ひそかに裏支配するようになった経緯については、その事情をよく知る野田氏の記事や、村岡氏の記事に掲載したとおりです。
それまで、麻原の家族は、1999年までのオウム真理教時代には、すでに逮捕されていた松本明香里(旧知子)以外の家族は、
教団の中で、麻原に次ぐ最も上の位階にあり、教団運営に関わっていました。
しかし、家族らが2003年にアレフをひそかに裏支配するようになる前の、2000年に発足したアレフ教団には、麻原の家族らは、構成員には含まれていませんでした。
それは、彼らの逮捕によって、離れざるを得なかった事情によりました。
その経緯の詳細を以下に掲載しておきます。
4.>>麻原家族の教団裏支配の証言③ 上祐史浩
麻原の家族が、アレフ教団を裏から支配している事実についての
上祐史浩の証言を、上祐史浩個人の総括文(オウムの教訓サイト)より掲載します。
5.>>麻原家族の教団裏支配の証言④ 宗形真紀子
麻原の家族が、アレフ教団を裏から支配している事実についての
宗形真紀子の証言を、宗形真紀子の個人総括文より抜粋してお伝えします。
6.>>麻原家族の教団裏支配の証言⑤ 細川美香
麻原の家族が、アレフ教団を裏支配していることについての証言を、
細川美香の個人総括文から、抜粋してご紹介します。
7.>>麻原家族の教団裏支配の証言⑥ 広末晃敏
麻原の家族が、アレフ教団を裏支配していることについての証言を
広末晃敏個人総括文から、抜粋してご紹介します。
8.>>麻原家族の教団裏支配の証言⑦ 水野愛子
麻原の家族が、アレフ教団を裏支配していることについての証言を
水野愛子個人総括文から、抜粋してご紹介します。